2008年12月17日水曜日

秒魂(びょうたま)

我が家より駅に向かう道の途中、障害物もなく、大きく富士山の見える場所がある。
晴れた日は最高で、壮大ですばらしい景色を楽しめる。

壮観である。

富士山を嫌いな日本人はいるのであろうか・・とふと思う。


今回はCM振付の話。


先日久々にCMの撮影現場に行った。
OA前なので詳しくは書けないが、化粧品関連の商品CMである。

去年は、CM、プロモーションビデオ等、マスコミ関連の振付は10数本。
しかし今年は初マスコミ関連の仕事であった。

もちろん単に売れっ子のCM振付師ではないといえば、
それで終わってしまうのだが、舞台公演等先に決まった仕事があり、
依頼があっても出来ず今年は何度か泣く泣く断ってしまっていた。

顔見知りでない、初めて一緒に仕事をするCMの監督さんや
制作会社の場合、一度断ると依頼は遠のく事は当然であり、
ましてやまだ補助金や、スポンサーもまだほとんど付いていない
「ソケリッサ!」では、マスコミ関連の仕事がある場合とくらべると、
大きな収入の差はある事は確かである。

とにかく声をかけてもらいながら断ることは
まったく申し訳ないことであり、心苦しさは残る・・。
どんな些細な仕事であれ、指名される事はありがたい。

書類や作品を期日までに仕上げる等ではなく
そこに自身がいる事が必要である。

本質を求めると、踊りは肉体が現場にいないと成立しない。
効率は良いとはいえないのである、そこが厄介でもあり、
よくいえば儚い。


さて今回のCMの話に戻る、

事前に絵コンテというコマ割された流れのイメージを
絵にしたものが送られて来るが、
今回は打ち合わせもすべて当日の現場である。
この作業パターンも様々で、内容によれば、
前もって監督と打ち合わせをして、振り付けを作って臨む事や、
タレントやダンサーが数回練習、又、特訓を行ない撮影に臨む場合もある。

場所は撮影所。監督、製作、プロデューサー、撮影、
大道具、小道具、美術、衣装、メイク、照明、録音、助監督、クライアント・・
思いつくだけでもこれほどの職種があり、かなりの大人数であり、
映画の撮影とまず変わらない規模である。
お互い顔見知りの場合もあるが、この日まったく初めて会う場合の方が多い。
そこでひとつの作品を作り上げるのである。

監督と挨拶をしてタレントの入る前に打ち合わせをする。
出演者はタレントさん1名、モデルさん3名である。
タレントが商品をかかげモデルが後方に位置しポーズを決める。

ここで自分は何をするか・・商品を持つタレントの商品の持ち方から、
モデルを含んだバランス。
秒数にすれば1~3秒の動きを数カットである。
タレントの立ち方や振り向き方、
そこでの商品の見え方等を数秒におさめるのである。
1秒は短いと思うかもしれないが、手を上げるなり、
横向くなりには結構充分で、画面の1秒は侮れない。

いわゆる踊りでないと見えてしまう動きも、
実は振り付けや監修がCMにはあるのである。

監督との打ち合わせで、まず動きを作る、
ここでは自分の感覚が大きく作用する。
監督のイメージ、商品の見え方、CMコンセプト等。
そこをしっかり踏まえた上で動きを見つけるのである。

例えば女性をターゲットにした商品なら、
力強い男性的な動きをしない、
しかしあえて女性的でない方が面白いのかもしれない・・
又、人間らしくない動きでシャープな商品が見えたり、
又、見た人が真似をしたくなる動きであれば
それだけ商品のネームバリューにも関わるかもしれない
タレントのイメージから逆にシンプルも面白い・・

きっと頭の中は瞬間にこのような感じである。
だが考え込まず1分もしないで作る。

実際監督が気に入っても、タレント側の話し合いが必要になる。
出来ない場合、不得意な身体の使い方では無理が判る。
その場合次の動きである。これも数秒で決めるのが良い。

今回も事前に決めた動きをやめて、違う見せ方にして、
本人の得意な身体の流れを利用し作り変えた。
自分も妥協せず、良い動きでタレントのエネルギーは
格段増えたのではあるが、ここは結構核となる部分で、
こちらの提示する動きでないと全くつまらない時もある。
身体を動かすことに抵抗がある場合、
見たことのある動きに収まる傾向がある。


初めて16年前に某テレビ局のCM振り付けをした時、
綿密に作り上げて用意をした振り付け以外を現場で
監督に求められた時に、20分ほど考え込んでしまった思い出がある。
その時は踊り手によって動きを変える、
柔軟な考え方が全く出来なかった。
現場は自分を待つわけである・・

その苦い経験は今に大きく影響している。

最近その監督からは2度の依頼があり、それは感激であった。
もちろん当時より成長は見せられたかと思うのだが・・


とにかく現場状況での集中力が必要だが、
瞬間に作り出す作業は面白い。
その作業を数秒に凝縮し、
そこに自分の色や痕跡も必ず入れ込んでいくのである。

さらに感服するのはスタッフの手際の良さ、
本当に自分の仕事に誇りを持ち楽しんでいる職人である。
商品やタレントがとにかく最高に見える為、
よくするため全員が魂を注ぐのである。

世の中で流行っている事を取り入れるようでは、
あまり良い結果を生むとは思えない。
やはりそのCM自体が新しい流れを作り出すべきであり、
いかに限られた制約と数秒間で何かが発揮できるかどうかが大事だろう。

テレビ画面からどのくらいのエネルギーが届くのか・・

恐らく数秒の裏ではたくさんの熱意が・・
なんていちいち思わないし、
興味がなければチャンネルを変える瞬間でもある。
しかしそこでいかに社会が興味を引くか、
大人たちは集まって数秒の瞬間の為に熱く励むのである。



この時間の使い方、効率の追求は、
今の社会全体の時間の使い方に似ているような気がする。
ただちょっと違うのは、それぞれが向けている
エネルギーの方向だけかもしれない。




そういえば昔のテレビで、CM中チャンネルを勢いよく変えて、
ぽろっとダイヤルが取れてしまった事があった・・






今回はこの辺で・・

告知
「魔法遣いに大切なこと」
中原俊監督 山下リオ主演

劇中振付けしたので映画内容含め是非ご覧ください。
12月20日公開予定。

■「家族愛~カゾクアイ~」
企画 演出 出演 アオキ裕キ

自分の教えている子供達と作品を作ったので興味のある方は御観劇下さい。

日時:12月25日(木)19時~(開場は30分前)
開場:町田フォーラムホール
チケット:2000円

パフォーマンス
石崎珠愛 伊地知恵実 今井あかね 大橋知佳 岡純子 
岡田夏海 落合あずさ 小宮山愛梨 渋谷里音 杉山優奈
 須原葉子 土谷咲子 露木菜々子 仲原舞 西島花純 
松岡広大 松田璃紗子 /ROCKy 瀬戸カオリ 小倉圭子 小倉誠

問合せ:ダンススタジオウップス 042-726-8788

インドでの映像とトークあり。
家族で楽しめる作品となっています。
まだ若干のチケットはあります、是非お早めにお求め下さい。

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

2008年11月12日水曜日

裸天国

まず風呂の話。

一般に風呂の中でひらめく事が多いと良く言うが、自分もそうだ。
企画、作品構成、振り付け等、風呂場でふと生まれることがある。

自分が風呂に入る時には、飼い猫のハナも付いてきて湯船の縁に座る。
そして湯船の中でぼんやりしている自分を、ハナはぼんやり見つめてくる。
つまり湯船の中と湯船の縁で、波打つ水音のみの密室の静寂の中、
お互いぼんやり向き合いじっとしているのである。

かなりゆるやかな空間である。

そこであらためてぼんやり猫を観察し、毛皮に包まれた体に目をやり、
あらためて猫も裸であるということを思う。
そこでは、猫と自分の裸の付き合いが展開している。
もちろんハナは何を考えているのかは判らない。

話の流れでまず大事なことは、人間側が”裸”であるという方なのだが、

これがリビング等の密室で一人裸でいても、
あまりひらめきがあるようには思えない。(やったことはない)
おそらく一般的に、衣服をまとっているのが適当な場所、
という状況での裸は、100%のリラックス感が得られるとはあまり思えない。

だが風呂においては裸は当然であり、
束縛も何もかも自然に脱ぎ去っているのである。

この自由と開放感とともに、誰にも邪魔されることなく
ぼんやりと湯に漂っている時間にこそ、
何か新しいものが生まれやすい、というのは確かにうなづける。
身体の開放なくしては、思考の開放もないといった所だろうか。

ここで猫の裸の方に戻るが、大きく違うのは、
とにかく猫はところ構わず裸である。
人間以外の動物は皆そうであるが、
彼らはどこにいようと裸であることににまったく抵抗はない。
屋外を元気よく走り回るハナの姿は、
開放感で喜びに包まれているようにさえ見えてくる。

「ニャオ」は「サイコー」と聞こえる。

踊りにおける裸であるが、当然ながら日常の感覚とは別になる。
自分は人前で踊る時、場所に寄らず裸で踊ることはよくある。
その場合、下はズボンや布をまとっているスタイルで、
手っ取り早い衣装という考えであるが、
確かに動物的表現に近づこうとする工程の一つなのかもしれない。

ちなみに全裸の場合、日本においては公然わいせつ罪の
適用可能性がある。それが芸術表現であろうとも
公けで全裸での表現は、観客が芸術とみなす保証も無く、
又、一般人々の通常の性的羞恥心を害する危険は免れないと、
そのような理由である。

もちろんこれはあくまでも法律の名目上であり、自分の観劇した内、
又、知る限りのダンス芸術作品では被害届が出た事も、
罰せられたことも耳にしていない。

路上における踊りで、必然性なく全裸になり
開放感に包まれていれば法的にまずアウトではあるが、
芸術的必然性の上において、
全裸で踊る感覚自体は表現者として興味はある。

そこでストリップの話になる。

何度か目にする機会があったが、
これは風俗だと簡単にわいせつ表現としてくくられる事に違和感がある。
いわゆる踊り子さんの中には、
芸術的意識がすばらしい人も少数ながら見受けられ、
その表現には、雑な卑猥さは無く、
とにかく純粋に美しいのである。

いささか皆最初に衣服を着て2曲踊るという
同じような演出パターンには疑問があるのだが、
絵画や彫刻にはない、
息遣いの美しさはまぎれない芸術であった。

そこには仕事としての自信とともに、
裸になる自然な流れがあるのかもしれない。
ストリップ小屋のもつ哀愁の香り漂う
空間は又独特でなんともいい。

人そのものがにじみ出る、
隠しようのない部分に美しさはあり、
女性の美しさという社会認識は、
芸術としてのストリップが確立されれば、変わる気がする。
アンチエイジング!と、外身にとらわれた
若返りに奔走しなくなるかもしれない。



最近自分が空を飛ぶ夢をあまり見なくなった。
飛ぶ夢だけにかかわらず、突拍子のない夢をみることも減ってきた。
だんだん現実的な夢を見る割合が多くなってきたのである。
生徒の小学生の子供達に聞くと、
空を飛ぶ夢はよく見ているという割合は多い。

現実の規則や、日常の当たり前の展開が夢の中にまで支配してくる日は、
寝ていても頭の中が固まってしまっているようで、残念に思えてしまう。
現実を知っていく上では仕方がないのだろうか?

考え事は風呂ではなく、眠って起きるとひらめく人もいる。
そういう人はしっかりと開放して眠ることができるのだ。


自分は苦しい夢をみたり、なかなか質の良い眠りが出来ずに
夜中に目を覚ますこともよくある。
すると胸の上に猫のハナが心地よく寝ているのである。

裸で走り回る動物達と同じように、自分達は裸ではなかなか走れない。
毛皮を捨て衣服をまとう道を選んだのである。

しかし創造性も何もかもすべて隠してしまう方向に進まないように。




自由なハナを見るとそう思う。

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

2008年10月22日水曜日

不幸日記

このブログを書くようになってかどうかは定かでは
ないのだが最近、自分の身の回りに起こる出来事
それが一般的に不幸の部類であっても、「しかたない」
とすぐにおもってしまう。

そして、文章の種として、又何かの時のネタとして、
その出来事を受け止めている自分自身に遭遇する。

以下最近の不幸の部類の出来事である。


  • ブラジルで財布を紛失。(中身はレアルやドルの外貨2万円相当と、キャッシュカード1枚)
  • 数日後日本に戻り、バンクカード等5枚入りのカードケースを紛失に又気づく。
  • (後に成田警察から連絡。カードケースは空港で落としていた。)
  • 携帯電話紛失。初落とし
  • 飼い猫のハナが近所の野良猫と喧嘩、足を咬まれ動けなくなり病院へ。
  • 初診料やら抗生物質やらで1万円近く・・。ちなみに次の日には走り回っていた。
  • 新宿で警察より職務質問。
以上の出来事があった。

これらはほぼ2週間の内にまとめて起こった
一般的不幸部門の出来事である。

もちろんどんな些細な不幸な出来事でも向上意識に水を差されれば、
落胆は瞬間にあるのだが、制約があればあるほど、
その中で少しでも自由の可能性を見つけようとしてしまう性質上なのか、
次に占めるのはやはりネタ(種)意識なのである。

つまり芸術家として日常生活で如何に制約の中から
飛び出してやろうかという事に楽しみを抱き、
針の穴のような所にも他人と違う形を成そうとしていなければ、
いざ自由な自己表現の場に来た時に、
その大きなフィールドに立つという喜びも、
又表現が出来る素直な喜びも無く、
もはや生命力は輝き失せたものになってしまう。

そんな意識が大きく自分の根底にある。

まあ良く言えばである・・。

上記の出来事が自分にとって落胆しないというのは、
たいした出来事ではないのだ!
といえるのではあるが、冷静に考えれば、財布関係はおおごとである。
そして財布を無くした直後程、もう落とすまいとことさら
注意深くなるものであるが・・
その後カードと携帯電話紛失へと続くのである。

これは明らかにそそっかしいにほどがあり
意力不足と反省をしなくてはならない。
失敗やその原因に興味を持つべきである。



そこでデータを取るべく新たに日記を書く事にしてみた。
しかし普通の日記ではつまらない、考えたのは<不幸日記>である。

不幸をメインとして、日常の不幸に感じた事柄を記す。
しかし、不幸の羅列だけではどうも寂しい人にしか思えない。
これはやってみれば判るが、不幸の内容のみ書かれた日記は、
まさに呪いの日記である。

考えたのは、不幸と思えた内容を記し、
その横に不幸の度合いを矢印で書く。
その度合いは矢印が下がれば下がるほど、強い不幸なのである。
%等、数字で書こうとも考えたが、
矢印線の微妙な角度やタッチで表すこととした。

たくさん書くのも面倒なので、箇条書き程度

*○月○日 駅の階段で転び仕事に遅刻。(感想・・・)(下がる矢印)
まあこのような感じである。

そして次に、良いと思われる出来事があれば、
その内容も記し、上がる矢印を書く。

*○月○日 仕事の成果、予想以上の反応。(上がる矢印)
このような感じである。

あくまでも大事なのは、自分にとっての
不幸ということの把握であり、心の変動である。
そしてこのような箇条書きの<不幸日記>を
手帳の隅に書くうちに気が付くことがあった。


例えば「下がる矢印」の出来事を記す。
そしてその数日先に、「上がる矢印」の出来事を記す。
すると矢印の落胆度が大きくても、少しの矢印の
上昇一つや二つほどで、帳消ししているような感覚になるのである。

当然価値観での度合いがあるが、
気持ちの落胆を埋めるているのは、
上回る気持ちの充足であり、
意外にちょっとした充足でまかなえる不幸も多い。


それから、落胆の感覚は当然はっきりと数字には表しづらい。

そこからいえば、裁判での精神的苦痛等における
慰謝料何千万円なんてものは案外単なるごまかしで、
本来人間としてスマートではないと思える。
原告の気持ちの落胆は、その落胆を充分に埋めるための
、死にものくるいの被告の行動や、
働きによる環境の改善などでバランスをとる事が本来は正当なのだろう。


不幸な出来事が起こると、知らずの内に
バランスを取ろうと充足行動を求める。
その充足行動で、不幸を何倍も上回る為、
無謀さを求める感覚が自分は好きである。

ショーン・ペン監督の「Into The Wild」で、
主人公の青年が放浪の末アラスカの荒野にたどり着く。
彼はお金も燃やし、最小限の装備でアラスカへ向かうのである。
一見するとその行動は常識では無謀である。
評も賛否分かれる彼の行動である。
しかし彼にとっては窮屈なものを排除して荒野で生きる中に、
彼の求める答えがあったはずなのである。

意味の無いことはとても意味がある。
そこには新しい何かを求める生命力に満ちあふれている。
無謀良し。

不幸を恐れて行動することは、現状維持には良いかも知れない。
しかしうまくいかなければそこは<不幸日記>の精神である。
正直な所、不幸日記をつけ始めた本来の目的から
微妙に逸れている気もしないでもないが、それもまた良し。


<不幸日記>興味のある方はいかがでしょう?



今回はこの辺で

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

2008年9月17日水曜日

越境節

今回のブラジルは、サンパウロ~マナウス~ブラジリア~
クリチバ~リオデジャネイロと渡る25日間の行程であった。

海外の地で踊り得る何かは、それが何であれ、
表現者として血が騒ぐモノを感じる。

なにはともあれとにかくブラジルは遠い国であった。
片道約20時間の飛行時間である。

この自由のきかない特殊な閉鎖空間に20時間は凄い…。
乗客は皆、何を想いじっとしているのか考えてしまう。
そして渡航先に着くや否やその閉鎖空間から一気に解放させられるのが又凄い。
そこには飛行機による麻薬的効果を感じてしまう。

海外旅行に対し人々が特別な何かを感じてしまう
エッセンスの一つでなのであろう。まさに旅行とはTripである。

そうこうして、ラテンの熱いエネルギー溢れる
色彩豊かな地に到着したのだが、降り立ったサンパウロは
ちょうど冬の終わりであり、天候の悪さ、人通りの少なさ、
ビルの雰囲気も全て灰色といった感じである。

さて、今回の作品では現地のダンサーが数名参加するシーンがあり、
自分たちと7公演同行することになっていた。早々に顔を会わせた。
彼らは見事に自分の求めていたブラジルをその後見せつづけてくれた。

ブラジル=サンバとすぐに結びつけるのは、
ブラジル人ダンサーとしては実はあまり良い事ばかりではないようで、
他の踊りも踊れると言っていたのだが、
自分はやはりついついラテンのエネルギー溢れる
サンバやサルサの文化を彼らに感じてしまう。

彼らはどこであろうとラテンのリズムが流れていれば、
美しく身をゆらし陶酔し始める。それはとてもナチュラルであった。
一度、自分も彼らのようにラテンのリズムに陶酔してみようと
試みたのではあるが、どうしても形式だけになってしまう。

どうしてもナチュラルではない。かといって日本の祭り囃子が流れていれば、
自然に踊り出せるかといってもしっくりはこない感じである。

ラテン文化とは全く正反対の場所に位置する日本では、
逆に、心地よい音楽が流れていても静かに耳を傾けるのが
日本人らしく違和感がないのかもしれないと思ってしまう。

もちろん祭りでは大いに騒ぐのだが、
日本人の日常では堪え忍ぶ美なのであろう。
しかし自分は現状を打破すべく、
今後も彼らのように美しくリズムに陶酔をこころみる気がする。

旅も半ばのクリチバでのエピソードであるが、
滞在したホテルのサウナでブラジル人ダンサー二人と
たまたま一緒になった。二人とも美しく、四畳半ほどのサウナ室には
水着を着ている状況で三人座っていた。

もちろん彼女達はその状況に全く抵抗は無いようである。
彼女達はおもむろに「あなたは隠している」と言ってきた。
この状況での「隠している」とは水着くらいである。
しかし「隠している」とはどうやら自分の踊りについてであり、
表現に対しての素直な興味であった。
(これは誰でも勘違いしそうなモノだともうのが。落語のようである)

「踊っているときあなたは何を考えているのか?」
「禅を表しているのか?」と質問してくる。

自分の踊りは何も隠しているつもりはないのであるが、
確かに彼女達のオープンな踊りとの違いは大きいようである。
街角でハグやキスをすることに対して全く抵抗のない彼女達の
表現に比べると、自分の表現は確かに隠し事だらけに
見えるのかもしれない。

踊っているときはあまり何も考えていないし、
たまたまそう見えるだけだとは思う。
もちろんスタイルではないので、また生活とともに変化をしていくのだろう…。
彼女達のオープンな踊りはしっかりとリアリティがあり、
とても素敵である。お互いにとって、表現形態はとても興味がある。



さて、ブラジルに日本人が移民として生活を始め
100周年という節目である。自分はぜひその踊りをそして
作品を日系人に見て欲しいと望んでいた。

神戸港より日本人が移民として初めて出発したのが明治四十一年。
ブラジルに渡航して、移民を取材し、
小説にした石川達三氏の「蒼民」(そうみん)
では、当時の移民事情は明るいものではなく、
荒涼とした土地での農業は出稼ぎとはほど遠いものであった。

その厳しい現実と向き合った時、帰国することは無理であると確信したのである。
そこには希望に満ちた移民制度というイメージは見えない。
世界には約270万人以上の日系人が生活しており、
ブラジルはその中のトップで140万人以上ということである。
日系人としてどういう感覚で日本を見ているのかは興味があった。

サンパウロの劇場にて、日系人のおばさま達と話した時の事である。
「見に来るのを楽しみにしていたのよ!」とかげりの全くない
ブラジル人の明るいテンションで話しかけてきた。

聞くところによれば皆日系二世。5人のうち3名は日本人の風貌であるが、
後の2名はやや浅黒い肌で南アジアの雰囲気をもつ顔立ちである。
つまり移民として渡ってきた日系人は、
日本人同士で結婚すると限られるわけではない。
二世三世と混血化をしていく事は当然なのである。

一緒に同行したブラジル人ダンサーにも2名の日系人がいた。
彼らは言われなくては日系人だと判らない顔立ちであった。
ブラジルは多国籍国家である。

世界各国の特色や肌の色を持つ人種が混在している事に
もともと抵抗は少ないと言えるようである。

それにしてもハーフやクオーターの人には美しい顔立ちが多く思える。
これは生物の子孫繁栄本能として良い遺伝子を残していこうとする力と
関係があるような気がするのだが、もしも数億年後の世界が
混血の子孫で満ちあふれたのなら、国の境は薄いモノとなり、
世界不和は減るのかもしれない。

各国間で遺伝子交配が無い未来に向かうより、
そこには明るい展開を感じる。



マナウスに住む日系三世の通訳の学生に
日本に住みたいと思うか尋ねた。
「日本へは2度帰った。大好きであるがきっとブラジルにいる」と答えた。
そして「日系二世はブラジル生まれではあるがほぼ日本人の容姿をしている。
幼少時代はやはり日本人はめずらしく、容姿のことでつらい思いを
したこともあるようで二世には日本をあまりよく思っていない人もいます。

三世は混血化によりブラジルになじんでいる分、
に自分のルーツである日本に興味を持つ人も多い。
結構日本に住んでいますよ」とのことである。
ちなみにタレントのマルシアは三世。
サッカーのセルジオ越後は二世で日本に戻っている著名人である。

もう一人の通訳をしていた20代の女性は、大学で日本を教える傍ら、
よさこいソーランのチームを日系人仲間とつくり、踊っていると言っていた。
彼女は日本からよさこいソーランのビデオを取り寄せ練習しているようである。
「日本は一度帰ってみたいが飛行機が高いからね…」とぼやいていた。
ブラジル人にソーランを見せたいととにかく楽しそうであった。

彼らは日本人の見ていない日本を見ているようである。
そしてみなハッピーである。



ブラジリアにあるテレビ塔には展望台があり、周りを一望できる。
近年、サンパウロより首都を移したその都市は砂漠の中にある。
中心はお台場のようであった。
そこでブラジルの子供達の遠足らしき一団と一緒になった。
彼らは自分が日本人に見えないと言って、楽しそうに騒いでいた。


自分も楽しかった。





今回はこの辺で。

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

2008年8月13日水曜日

ニューきらぼし

先日、昼下がりの中央線車内にて、
目の前に座っている女子高生2人組の会話が聞こえてきた。

最近、小中校生に踊りを教えている事もあり、
なんとなく注意が向かった。

閑散とした電車内、小説を読んでいる自分の耳には、
彼女達のイケメンについての議論が飛び込んできた。

ちなみに「イケメン」は今では広辞苑で引く事のできる言葉である。
漢字をあてると「いけ面」。いけているつらである。
10代の創る言葉の勢いを感じる。

将来に残っていく言葉かどうか判らないとしても、
停滞なく新しい言葉を創造していく10代のエネルギーはすばらしい。
中高年層においても、どんどん日常的に
新しい言葉を生み出す事があってもいいと思うのだが。

さて、その女子高生達なのだが、
その会話の対象がどうやら目の前に座っている自分の事であり、
そしてその自分がイケメンかそうでないかを議論しているのである。

細かい会話の内容は自意識過剰にもとられかねないし、
面倒なので差し控えるが、とにかく自分は彼女達程の
子供がいてもおかしくない年齢である。

しかし相手が誰であれ、他人に評価されるとなるとやはり
イケてる方が良いと心に思っている自分がいる。

そこでいきなり自分が踊り出しでもすれば
予想の出来ない展開で話も面白いのだが、
さすがに度胸は出なかった。

一般的に思えるのだが、ぎこちなく小説に目を落とすのみである。



話は少しそれるのだが、小中校生を見て最近感じる事は、
まず驚異的な成長スピードである。
踊りを習う生徒達も、頻繁に会っているにもかかわらず
明らかに身長は伸び、急激な成長をうかがう事ができる。

これは親になり成長期を過ぎると忘れていく
感覚なのかもしれないが、その子供が成人へと急激な
成長をしている時期において、実は彼らの心には
かなりのストレスがかかっているのを感じる。

それは明らかに肉体の成長に精神の成長が追いつかないのである。
生まれて十数年の人生では世の中に対しての存在の仕方、
あまりあるエネルギーの使い方等はバランスをとる事はなかなか難しく、
自分自身の外に広がる無限の世界に対しての不安は
大きくて当然なのである。

そして内側からだけでなく物心つく時期の彼らには、
社会全体の大きな不安感はストレートに
その身体へと染み込んでくるのである。

よく思い出してみれば誰もが弱くもろい
ガラスの十代であったはずであり、そしていうまでもなく、
今の若者は自分が十代の頃よりも遙かに
不安に包まれた状態なのである。

現在はまさに個人がいかに心地よく生活するかを
追求して作られた世の中のシステムであり、
そこでは生物としての人間が繁栄することは追求されていない。

一人一人が常にかかえ、見えないようにしている寿命や
死に対する恐れだけはなく生物レベルでの
人間の滅亡と向かい合った時、
果たしてその人間は一体どう変わるのかと思ってしまう。

今の世の中をふまえると、現在の若者は、
その進化の真っ只中にいるのではないかと思う。
生徒達の踊り表現には予想の出来ない10代の不安定さがある。
そしてその不安定さが現状を打ち崩す力の片鱗に見えてくるのである。

余談であるが最近のニュースで、思春期の子供を持つ親が、
今の世の中、「子供が事件を起こさないかと不安です。」と
とても不安な顔で数名インタビューを受けていた。

重複するようだが、肉体が不安定なら
精神もそれに伴うのは当然であり、
その不安定な中一番身近な親が不安な顔をするのが一番まずい。
親にはどっしり構えていて欲しいのである。

人間は精神と肉体と丸ごと合わせて人間であり。
丸ごと観れば情報や信号は現れている。

ならばしっかりと身体を動かし健康になろう!…と言うのは易しいだろう。
だが、個人がいかに便利で楽な生活が出来るかの追求の中,、
単純にそこには行き着くとは思えないのが自分の中にある。

先日中学生と地球温暖化の話をしていて
「車をなくせば、排気ガスが無くなって一番かんたんだよね」と
自分に言ってきた。

その通りである。
なぜそれは出来ないのかは判る事で、
単純に車を使っての社会の構築が今であり、
社会システムに複雑に入り込んだ車が無くなる事は
今更あり得ないのである。

へたをすればナンセンスと言われるであろう。

つまりこれは人間個人の生活重視のシステムであり、
生物としての人間が繁栄するためには追求されていない結果なのである。




目の前に座っていた女子高生に戻るが、
彼女達の会話はイケメンについては結論が出た訳ではなく
すでにどうでもよくなったようで家族話に変わっていた。

彼女達の会話は予想が出来ないのである。

世のトップに君臨する人間の予想できる発言や行動よりも、
彼女達の方が遙かに地球を救う力があるように思えてしまう。



自分は踊りを踊る事、そして人に見せることが
全ての平和になるとは思っていない。
人間の表現は驚くほど複雑で、同時に、
笑えるほど単純なのである。

その表現を観る側はもちろん受け取り方は
安易にはいかないのである。
この社会で生きればゆがみが出るのが当然であり、
そこに人間のもろさがある。

自分がなぜそこに魅かれるのか解らないが、
自分の表現や作品はそこにたどりついてしまうのである。
予想できないコミュニケーションはいい。

さて、この文章が掲載される頃はブラジル公演中である。
今回は大所帯の作品に参加。

ちなみに自分の役柄は「きこり」。




ではまた次回に…。

* * *

2008年日伯交流年 /ブラジル移民百周年記念
「現代舞踊ブラジル公演ツアー」。
「笑う土」

演出・振付・構成/加藤みや子
ダンス/立花あさみ 昆野まり子 むらやまマサコ
細川麻美子 畦地真奈加 畦地亜耶加 カスヤマリコ 村本すみれ
横田恵 寺杣彩 市原昭仁(山海塾) アオキ裕キ 登渡カッパ
木原浩太 岩濱翔平 飯田惣一郎
美術/三輪美奈子
音楽・演奏/加藤訓子
テキスト/三輪遊


※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

2008年7月16日水曜日

スポンジしぼり

注射が嫌いである。

8月より一ヶ月間、ブラジルにてダンス公演を行う。
2008年は日本人ブラジル移住100周年にあたり、
ブラジルとの文化交流として主要都市を廻る。

以前、東京の青山円形劇場でも行った作品で
「現代舞踏」の加藤みや子さん演出の「笑う土」に参加する。

実はブラジル熱帯地方に黄熱病の発症者が確認され、
渡航において予防注射を勧められた。まよう。


注射が平気な人には笑い事であるが、
告白すれば、自分は注射を打つと気絶してしまうのである。



始まりは高校時代。ボランティア意識の目覚めた献血の時である。
とにかく初献血を終えるやいなや目の前が白い世界に変わり、
気がつくと献血バスのベッドに寝ていた。

その日はたまたま体調が悪かったのか、
注射経験は以前にもあったが、それ以来の特異状況なのである。
その後は20代にピアスの穴空け、腕のタトゥー、
親知らずを抜く時の麻酔と全ての針に身体はことごとく反応し、
ことごとくその場で意識を失った。

おととしは腰を痛め、不安ながらも針治療に行ってみたのだが、
見事に体は針を拒み、目の前は白い世界に包まれていった。


トラウマである。

気を失うのは血を抜くことでの貧血によるものではなく、
体に突き刺さる尖った針に対しての体の記憶なのだ。

記憶は時間の経過とともに薄まっていると感じるが、
身体の真相の部分にはしっかり残っているのである。


・・・そのつながりで印象深い話を二つ。

一つは2001年のNY同時多発テロの経験。
そのときはNYに単身で半年ほど滞在しており、
色々な意味で踊りの転機の時である。
その日の朝、ハーレムに住んでいた自分は
ルームシェアのアメリカ人カサンにたたき起こされてその事件をTVで目にした。

身近でのあの出来事はかなり強烈であり、
カサンにしてみれば自国のこと。自分の何倍ものショックであり、
彼の半ばパニック的な心情は痛烈に伝わった。

彼は黒人ミュージシャンで、どちらかといえば物静かに
ピアノを弾くタイプであったが次の日から急に
何本もコメディ映画を借りるようになり、夜な夜な大声で
笑って観ていたのは印象深く、忘れない光景である。

自分も一緒にMrビーンを観ていた。

カサンの行動は当事者の象徴的行動の一つであったし、
国全体が大きく変わった瞬間を痛烈に肌で感じた。

その日からつい最近まで飛行機の墜落する夢を見ることがあった。
何でも結びつけるつもりはないが、リアリティーさは
無関係には思えないほどで、
カサンにはもっと強い形で残っているはずである。



次に、懐かないうさぎの話につながる。
現在自分の家には、猫のハナの他にうさぎのクロとチャイロが生活している。
懐かないのはクロのことで、その名の通り体毛は黒で
年の舞台「ソケリッサ!」の出演者である。

ペットショップで購入したときは片手に載る大きさで、
携帯できるピアノの鍵盤の上に檻を作りその中で自由に動いてもらった。
つまり舞台では彼の動くことで鍵盤の音がなり、
その即興ミュージックと供に自分が踊るという状況である。

その演奏はチャイロと共に二匹とも情緒があり、
ぜひまた共演したいと思っていたのだが、
悲しい事にクロは自分に懐いていない。

実は不注意で猫のハナがクロに傷を負わせ、
その傷が化膿してかなり大がかりな事になってしまった。
ネコはうさぎを補食しないと浅はかさがあったのだろう。

もちろん捕食はしないのだが、ネコの本能で戯れるのである。
一見柵から出たうさぎと仲良くしているようには思えたのだが、
そこには弱肉強食の世界がしっかり存在し明らかに
今までとは違う空気が張りつめており、
今までの柵を隔てた緩慢な目つきはお互いになかった。



動物は人に飼われる場合、区切られた場所に保護される。
そこでは生存する必然のために備わった個々の特性、
強烈な生命エネルギーは行き場を失い、別の動物へと変わる。
本能を押さえ込まれると、DNAレベルではいかなる心境なのだろうか。

以上の思考は現在の回想の中での展開であり、
傷ついたうさぎに対して正当化をしている訳では無い。
とにかく動物病院では獣医師にこっぴどくしかられた。
猫用のおもちゃはうさぎの毛で作られることも多く、
仲良くなることはありえないとの事である。

正にその通りであり、利己主義が招いた出来事には本当に深く反省している…。

化膿している部位を削除する手術をして、一ヶ月入院、
傷が治るまで三ヶ月通院し、今では食欲も旺盛でハナ並の大きさにまでなった。

しかし明らかに触られる事に対しての反応は以前とは全く違いがあり、
体を抱えると置物のように硬直する。
さんざん体を触られ恐怖を感じた訳である。




「トラウマ」「精神的外傷」を広辞苑で引く。
「精神に持続的な影響を与える原因となる心理的ショック」とある。

次に「精神」で引く。
「1:(物質、肉体に対して)心、意識」
「2:知性的、理性的な能動的、目的意識な心の動き。根気。気力」
…以下、省略

トラウマは、心・意識に大きく影響する要因であり、
良かれ悪しかれ、強烈な心理的ショックは人間形成の
大きな要因なのである。

つまり人間本来の生命エネルギーにおける
優れた芸術はトラウマを与えるべきものである。

これは別に大げさでもない。

7月より子供に踊りを教え始めた。
子供達は眩い新しいスポンジであり、吸収力は抜群である。
やはり大人との大きな違いは吸収力であり、
くたくたに吸い込みきったスポンジの大人はたくさんいる。
(なにげなくそのくたくたのスポンジをもつ大人が好きなのだが…)

何を教えるべきか?
本当におもしろいと思える将来の踊りの形は何か?

それは、自分の汗水流して創りあげた芸術を
一瞬でくつがえす踊り…。


それができれば最高である。

つまりそれは目の前にない事を教えるべきであり、
そこには今の常識も鼻息で飛ばしてくつがえす力をもつ
人間が笑っているのである。

予想を裏切られることは楽しい。
どんな大人にしろ、赤ん坊から人生は始まり、
生まれたときはフレッシュなスポンジである。

産声を上げた瞬間からそのスポンジには現代社会侵攻が始まり、
どんどん吸収されていく。10代ともなれば明らかに
それぞれの10年間はスポンジに見える。

将来はどんな大人になっているのか判らない。



今はトラウマを与えること。


自分は一緒にそれを楽しむのである。





ではこのへんで…。

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

2008年6月18日水曜日

プールサイドストーリー

まず夢の話。

その夢は子供達とプールサイドで踊っているところから始まった。
おそらく皆小学生位で50人以上はいた。
自分と一緒になって踊っている子供、プールに入る子供、
周りを走り回る子供など皆楽しそうだった。

ただ一つ違和感を感じる設定は、
あの話題の競泳水着のフルスーツ姿であること。
断っておくが幼児趣味があるわけでもない。
もちろん水着に関してはニュースの影響は間違いない。

そのうち一緒に踊っていた男の子が一人、
プールに自分を投げ入れて遊んで欲しいとせがんできた。
自分の中には小さい頃そうやって父親に投げ入れてもらった記憶があり、
なかなかスリルがあって楽しかった思い出が残っている。

自分はその男の子を持ち上げた。
軽くはないが投げられない重さではない。
自分は強く押し出してプールサイドから投げ入れた。

ところがその男の子は、力配分での着水イメージ地点を越して
ぴゅーっとまんがのように空を飛んで行き、
なんと反対側のプールサイドに落ちてしまった。

残酷な展開にあわてて駆け寄ると、
男の子は25m以上は飛んで落ちたにもかかわらず
かすり傷ひとつない。まさしく夢の中である。

そして男の子は目を白黒させながら、
「この水着は飛ぶんだ」と教えてくれた。


飛ぶらしい。

しかし夢ほど意識下のコントロールのきかない世界は無い。
その展開や演出はまことに驚くべき時がある。

子供達とのプールサイドダンスは、
太極拳のようなパンチのくり返しでおもしろかったが、
それ程の振り付けといえるものでは無かった。

しかし現実の世界では想像の出来ない動きや、
演出は大いに参考に値する。

それにしても子供達が皆あの有名な
競泳水着のフルスーツを着用している光景は強烈であった。
あの競泳水着のネーミングには空を飛んでいくような
イメージを持っていたのかも知れない。

日常において、人が身体を動かす場合、
習慣的な動きほど無意識に体を使用している
(無意識のうちに命令を送る)。

踊りの場合は実は結構忙しい。空間を意識したり、
指の先まで命令を送ったり、無意識を、
意識を持って演出したりと内側ではめまぐるしく
状況が変わっていくのを感じる。

何はともあれ、無意識に作り上げられるもう一つの世界は、
自分にとって大きな刺激になっている。

現実の自分の目の前だけの世界は、
実は、とてもちっぽけなのである。

さて、ここで前回の続きだが、
インドから帰ってきてやりたくなった事の一つである
体を使った仕事への興味の実現についてである。

インドの物乞いをして暮らす人たちを見て思ったのだが、
日本では家が無くなっても仕事がなくなっても食べることは可能である
。いわゆる炊き出しや廃棄食料の多さなどで比較的に
ホームレス境遇といえども体格がよかったりする。

自分が興味を感じたのは力車の自転車を漕ぐおじさん達や、
目前に集まってくる物乞いの人たちの生きるエネルギーであった。
あのギラギラした眼は浅黒い肌もあいなって一層強さを増す光であった。

死ぬまで自転車を漕ぐと言っていたおじいさんの
自転車を漕いで出来上がった無駄のない体型。
そして少しでも収入を増やそうとする浅ましく思える程のエネルギー。

とにかくその身体全体から発する説得力は嫌でも目を奪い、
存在は自分の内に響いてくる。

又、鋭い眼光でこちらを見つめ、
その視線を逸らすことなく手を差し出し、
施しを待つ物乞いの人達。ルピーを受け取ることができると
彼らは礼を言わず遠ざかる。

カースト制度により最下層の生活を強いられてきた彼らの
物乞いをする行為は、自分の目には明らかに労働に映る。

生きることに対して常に向き合う彼らの圧倒的な存在感と
その背負う歴史もろとも、骨格の浮き上がった痩せ細った
身体で土の上にふわり立っている。




さて働くと言うことに対して自分はどういうイメージを持ち、
そこに何を期待しているのか…。



日本社会に密接した肉体労働を体感し、
そこで得る物は何か…?と体裁よく文面には表現できるが、
ここのところ出費がかさんだのでアルバイトをしてみようという展開である。
冷やかしではなく結構真剣に取り組んだ。

アルバイト自体は飲食店のウエイターや皿洗い、
窓ふきにビル掃除、チラシ配りやスキー場、民宿、
日焼けサロンでの店員まで…かなりの職種はこなしている。
しかし、10年前のことで現在の自分の感覚とは違いもある。

2種類やってみた。

一つ目は空カンやビン、ペットボトル等、
いわゆる不燃ゴミの仕分けである。

街中や家庭などより収集されてきた不燃ゴミには
分別とはほど遠いものがまだ山のようにある事にまず驚く。
働いているのは年配者が多く、食べ残しや飲み残し、炎天下の中、
腐臭や汚れや汗にまみれ、黙々と作業をこなす。

若者はなかなか続かず、外国人を雇う現場も多いらしい。
そこは15人程の現場であり、20代はほとんどいない。
見たところ30代が半数で残りは50~60代後半までいるように見える。

長時間かがんで硬くなりのびづらくなった腰は、
食べるための大事な仕事というプライドで形つくられたものである。

50歳だと言ったおじさんは、むかしは建築デザイナーであったと話していた。
この仕事をやらせてもらえる事に感謝しているとのこと。
趣味はクラッシックギターであるが、仕事で指が硬くなり弾きづらくなってきたと言う。
しかし、無骨なひびきこそこのおじさんの曲である。



それにしてもこの仕事は苛酷で鼻の穴まで汚れにまみれ、
作業着は迷彩服に替わる。

日暮れまで働き、山積みの不燃ゴミの重さは
日給8000円という金額の重さになる。


もうひとつは荷物の仕分け作業である。


1日7000円程で、業界でもトップクラスに入る宅急便を扱う
この会社はシステムもすばらしく、ベルトコンベアの上に
流れてくる荷物量はとめどない。

間違いなく重労働であり、ゴミの仕分けよりも年齢層は断然若い。
アルバイトにおいては20代後半が多く高校生も働いている。
一般的な社会の一部がありそしてそこに自分の予想をしたリアリティがあった。

それは特別なことでは全くなく、生きる余裕のようなものである。
つまり生きることに対して常に向き合う必要はないわけであり、
仕事に執着するまでもなく、別の仕事でもかまわないともいえる。
もちろん仕事もきちんとこなし、成果も上げている。
誇りを持ち働く人もいる。

ここだけではない社会に広がる空気はその匂いであり特異ではない。

もし仮にギラギラと痩せ細り生きることに誰もがどん欲であれば、
自分は逆に存在感を持たない人に対してあこがれと
興味が大きくふくらむのかもしれない。

とにかく理想だけではすべてを収めることの
できない複雑さが人にはあり、簡単に良い悪いとはい言えない。



働くという行為に自分は何を求めているのだろう…。


これらのアルバイトは6月で終わる。
もの覚えのおそい自分はやっと慣れてこなせてきたくらいではあるが、
7月は一ヶ月間子供に踊りを教えることにもなり、展開に楽しみができた。

ーーー

実は、宅急便の荷物を強く押し出す動きが、
何か心の片隅に少し引っかかっていた。

今、判った。

夢の中で子供をプールに投げる動作と同じ感覚であった。

夢の潜在力はいい。








今回はこのへんで。

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

2008年5月19日月曜日

仮面ダンス2

人間の生命力は強烈だ。
身体がムズムズとしてじっとしているのがつらい。
子供の時の感覚を思い出す。

3月下旬といえどデリーの気温は30度近くありその熱気の中、
さらに暑苦しいおじさん達が街にあふれている。

露天商や洋服屋、ホテルや観光の勧誘やタクシー、物乞いまで。
一度話に乗るととにかく高値での提示から交渉が始まるのは
日本人に対する商売の定石らしい。

10ルピー、20ルピーまけるまけないの交渉は
100円にも満たない場合も多い。

しかし必至の熱気が体中からあふれている。

つまり生きる為、生活の為であり
そうそうにおれない勢いの眼力は強烈であり、
こちらも何度か相手の言い値でおれてしまったこともあった。


一度リキシャを漕がせてもらった事がある。


リキシャは人力車の自転車バージョンといった乗り物で
2人乗り程の荷台を自転車でひいて人や荷を運ぶ。



ビスケットをせがむ子供達と遊んでいると
そのリキシャの運転手はいきなり話しかけてきた。

見た感じは60代くらいだが背筋もしっかりとしている。
何を話しているのかわかりづらかったのだが、
どうやら靴を履いていない子供を、
靴を履いている人間が触るのは珍しいとか
そのようなニュアンスである・・・。

ひとつも笑顔を見せない運転手は、
ただで乗せてくれると言ったが、別に行く当てもないので断ると、
お前が漕いで俺を運べと言ってきた。


もちろん面白そうなので挑戦してみる。


簡単に見えていたが、自転車のペダルは相当に重く、
人を乗せていれば強烈な重労働である。
身体つきは細いがふくらはぎは筋肉が浮き上がっており、美しい。

クラクション鳴り響く、ほこりや排気ガス、
地球温暖化は全く気にしていないような道路状況は
健康被害も当然ありそうである。


生まれてからずーと自転車を漕いでいると言っていた。
自転車をこぎ続けて出来上がった身体…。



生活の延長に成り立つデザインには
無駄はなくシンプルである。
たいした装飾もない鉄製の自転車に
何十年も自転車を漕ぎ続けてきた老人の身体。
無駄のないいさぎよさは心に響いた。

内側から出来上がった外側は説得力があり、美しさがある。
見渡せばうさんくさく感じていたインド人達が
何となくかっこよく見えるような気がして笑えた。



ガンジス川のほとりで物思いにふける
インド人達の姿を目にする。

聖なるガンジス河の岸辺に何時間も座っているだけで、
ヨガの達人やら選任のように見えるから不思議である。

ガンジス河の川幅は200m~300mはあり、
向こう岸は人の住まない広野のようだ。
確かにかなり壮大な景色である。
人の住んでいる側は階段状になっているガートと
呼ばれる沐浴上がつらなり、人々はそこで聖なる川の水をあび、
洗濯をして、体を洗い、子供達は水遊びをしている。

横では牛が水から顔を出して群れになっている。
まさに生活の一部。

聖なる川なのだがゴミを捨てることには抵抗がないようだ。
最大限の川の利用法である。

これがまったく美しく生活臭のしない川であれば
当たり前でありこんなに観光客も集まらない気がする。

ガンジス河の岸辺のヨガの達人も、
仙人も頭の中は哲学的思考に満たされているわけではなく
結構カラッポなのかもしれない。

ただぼーっとそこにたたずんでいるというか、
存在しているというだけに思えてきた。

つまり森に生えている木や草や花のようにただそこに存在として、
瞬間瞬間を生きているにすぎないのかもしれない。

こういう表現を使うと美化しているかのごとく感じてしまうが、
インドという環境で暮らし、生活しているといるとこうなった
、という人間の生命力が形ではなくそのまま
生のままむき出しているのを自分は感じていた。


日本に帰ってきてからも身体はムズムズ何かに突き動かされている。
運の良いことに、8月一ヶ月、ブラジルでのダンス公演の仕事が入った。
ついでにブラジルの路上で踊ってみることが出来る。



それともう一つ。


ダンスではない肉体を使ったシンプルな仕事をやってみたくなり、
10年ぶりのアルバイトをした。

いわゆる肉体労働である。
時給950円。




詳しくはまた次回。




※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

2008年4月16日水曜日

仮面ダンス

インドに行って来ました。

「あつかった」


3月23日から2週間の旅です。

次の企画の思惑もあり、「ソケリッサ!!」の舞台終了後、
落ち着くまもなく出発しました。

そもそもなぜインドに行こうと思ったのか、

芸術を必要としている対象は、
チケットを買える人間ばかりではないということ、
又、異国の地の路上で踊る事での観客の反応等・・

その辺りを踏まえ、頭の中でシュミレーションをしてみます
おもしろい、行動に移してみたい、と思った国の一つがここでした。

書店に数ある紀行本の中でも
この国に関しての内容本は恐らくトップともいえるでしょう。
つまり何らかの感銘を受ける人間の多さ、
人に伝えたい出来事や状況の多さ・・という事。

少なくとも日本では味わえない感覚はそこにあるようです。



飛行機が空港に着きました。

始めに、ホテル街でもある、
ニューデリーのメインバザールに到着したときの感覚は強烈でした。



なんとか状況説明をしてみます。

時間は夜7時位、ちょうど日が暮れかける感じです。
東京の竹下通りのような道幅、そこにホテル、
洋服、靴屋、食べ物(店の前に油入りの大きななべがあり、
あげ物を作っていたり) 電気屋、お香にタバコや土産屋等、

他にバナナなどの果物売りの荷車、
道端に広げる香辛料や穀物売り、
そこを行きかう三輪オートのタクシーに、
自転車タクシーのリキシャー、車、人、牛、野良犬・・
それらが土埃の中、とにかくはげしいクラクションやら、
物売り、勧誘の声に当然ながら解らないヒンディー語の会話・・
圧迫感のある40度近い気温と、街自体の熱気が全身を覆い、
そこにのって道端の牛や犬の糞や尿とゴミの匂い、
お香やフルーツの甘さ、タバコや香辛料の匂いが混ざり、
主張しただよっている場所。


そんな感じです。

そこに到着した自分の傍にはホテルの勧誘やら、
絵に描いたような物乞う人が近づいてきます。
舞台本番を終え正直疲労も残る自分には、
油断もありましたが、間違い無くすべての状況に圧倒されました。


インドについての本は何冊か目を通し、
ある程度想像はしていた通りです。
しかし、五感を通し、カラダの内外に圧倒するエネルギーは、
その同じ空間に存在をすることでしか
感じ得ないものがあるという事を改めて思います。


興味が強いのは、とにかくその一番最初の感覚です。
そこに素直に見えるモノです。

経験をつみ、学習をし、慣れていく事も重要かもしれませんが。
初めての経験や体験で得る圧倒される感覚は、一度きりです。

それは貴い。


さてあれこれと分析するつもりはありませんが・・
自分はこの国では黙って過ごす事が出来ませんでした。


地下鉄や食堂のメニュー、
公共施設の入場料以外、
基本的には値段は提示しておらず、
何事にも交渉が普通です。

買い物では他国でも良くある光景ですが、
タクシーともなれば、値段交渉をしても
高額な料金請求をされる場合もあります。

自分がよく利用していたのは、
バイクのタクシーのようなオートリキシャと、
さらに近場はサイクルリキシャー
という人力車の自転車版です。

基本的に道を歩けば、
「乗ってけ」なり「観光に連れて行く」なり
リキシャ運転手は頻繁に声をかけてきます。

それ以外にも物売り、うさんくさい勧誘やら、
うるさいの一言でした。

大人しくしていれば、さらに強引になり、
言葉巧みに言いくるめようと展開したりします。

つまりそこでひるまないエネルギーを使う事になります。

日本の10分の1くらいの物価の状況、値段交渉も、
日本での50円や100円。

そこまで構えすぎても・・というのが現状ですが、
この辺の感覚は難しい。

しかしとにかくこのおじさん達は皆生活の為に必死であり、
日本人は金持ちで、もらえるならたくさん欲しい。
ということであり、それはとにかく伝わります。



旅の最後の方に知り合った、
インド人の青年ラカン氏が言ってました。

「インドには仕事に就いてない人間が山のようにいます、
家族に食べさす為に犯罪もしてしまいます。
とにかく仕事が欲しい、日本に連れて行ってください。」

さすがに日本に連れて行くことは断りましたが、
たしかに現状でしょう・・・


彼は自分に「街のガイドをするからガイド料をくれないか?」
と言ってきました。値段は200ルピ-、約600円です。

彼の家庭では、家族みんなで月収が800~1500ルピー、
お父さんは馬車で運搬をする仕事とかで、
姉さんがミシンで洋服の仕立てをしており、
彼はたまにガイドをして稼ぐとのこと、
200ルピーは大金です。

交渉は100ルピーで、
いいガイドであれば200ルピーを払う約束にしました。

彼とバイクに乗り周りましたが。
本当にインド文化の歴史もまじえつつの良いガイドでした。
200ルピー払いました。対等の付き合いでの金銭感覚が、
重要だと思います。

彼とのやり取りだけでも色々考える事がありました。


とにかく一歩外に出れば何かとエネルギーを必要とします。




日本では、日常において、
コンビニでもスーパーでも黙って買い物が出来るし、
他人との摩擦をいかに減らすかという社会の流れもあります。
感情が無くても食べていける、人間相手にがんばる事は
あまり必要でないのでしょう。



もちろん自分も、誰との接触もなしに、
又何も話さない一日はよくあります。

自分は日本人であるという事を、
とにかく感じます。






そして、踊りました。


撮影:同行した通訳さん


ジャマーマスジットというイスラム教のインド最大の礼拝場があり、
その近くの大通りでやってみることに。
その近辺はいわゆる最下層の暮らしをする人たちが
多い地域にあたります。

日本の路上生活者との大きな違いは、
生まれてから死ぬまでその生活形態は
変わらないのが現状という点です。


生まれてからその暮らしで当たり前であるという人生・・

極論かもしれませんが、
自由のつもりでも自由でなく、見えているようで見えず、
現状から殻を破る意味さえ解らないのは、
カーストやインドが特別だからでなく、
実は自分達誰でも持ち合わせている気がします。




その場所で踊るということ・・


まぁ考えても自分を駆り立てるものが明確ではありません。

ただすべてが一生懸命に生活をしているというか、
インドのシステムの中で、不器用な生き方だったり、
ずるがしこい生き方だったり、適当だったり、
一心不乱に神に祈り、美しかったり、
土まみれになったり、とにかくそこらへんが、
自分の踊りたい欲求を強烈な力で
押し出そうとしてくる感覚です。


「あついもの」です。


日本から用意をしたダンボールの面をかぶり、
模様や、表情を描きます。

その描いたイメージが、
自分の言葉に表現できない動きであり、踊りになります。


踊り始め大人子供が徐々に集まり始めます。
裸足の汚れた服装の人、普通のシャツの通行人、
友達同士の学生らしきグループ・・
肌の色のせいか、白目の部分が強調されて見えます。
その視線には、自分に対する興味を感じます。

面の中の表情が気になるようで、皆のぞきたがり、
動きのマネをしたり・・
良い緊張に包まれました。




しかし途中から一部の若者達がいたずらを始め、
足元に氷を撒いてきました。
遊びの延長での行動はわかりました。

続けます・・

そして彼らは最終的に、
この時持っていたダンボールのお面を全部破いてしまいました。


これには正直頭にきて、怒りを表しましたが、
相手はなんとも無いようなリアクションでした。


傷つきました。


もっとつかみかかり怒りをあらわにすればよかったのか、
単に場所が悪いのか、彼らの場所に入りすぎたのか、
惹きつける力が無かったのか・・


帰り道、涙が出てきました。久しぶりに。


何の涙かも解りません、行動によってのものか、
貧困を目にしてなのか、仕事の疲れなのか、


日本の日常では、
やはり人は心を動かしにくい状況だと思っています。

人との関係の中で、怒り、ただ悔しくて涙を流したり、
喜び、心から感動したり、大きな力に突き動かされる状況は、
人によれば格好悪い事に見えるかもしれません。

喜びの涙にしろ、悔し涙にしろ、心が動く証し。
それはとても人間的でいるアイテムの一つだと思っています。
状況を振り返ると、泣く場所を探していたのかもしれません。




この流れでの自分の経験は、
純粋に文章にして伝えたいと思いました。



その後の路上での踊りは、妨害される事も無く展開し、
バラナシという場所では、 現地のガイドの協力もあり、
いくつかの村に行きました。



踊り終わりの感想においては

「よかった」「面白い」「エクササイズみたい」
「曲はいつも無いのか」「もう一度やれ」
といった感じで、最後に「又来て欲しい」
という声が何度か聞けた事に対しては、
素直に又来たいという気持ちが湧きます。





いやぁ・・いろいろありました。



最後まで踊れたにしろ、無理だったにしろ、
この国で踊りたいと思った理由もなんとなく見えました。

もちろんインドだから受け入れられなかった
という風には思っていません。

どこでも旨く行かない事はありうるはずで、
たまたまだったと思います。





ダンボールの仮面は最後にはずして踊ります。

やはり皆、顔を見たいようです。










この旅の話、続きは又次回に・・

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

2008年3月21日金曜日

いい加減なうた

今回の舞台「ソケリッサ!!」~いい加減なうたの章~において、
会場に足を運んでいただいた皆さんに、
この場を借りて心より感謝を伝えたいと思います。

又、非常にたくさんの方に興味を持っていただき、取材及び、
宣伝に協力をしていただいた事に感謝しています。

ありがとうございました。


まずは、本番を経た感想・・

ちなみに、おじさん達は、
「よかった」 「たのしめました」 「すっきりした」 「おわった」
このような一言でした。

端的です。

おじさん達の発言、行動を見ていると、ふと見えるモノがよくあります。



都会で生活を営む人が、山や自然のある場所に、息抜きなり旅行に行くとします。

よくある光景です。

そして景色を堪能し、風を感じ、空気のにおいを嗅いで、
日常なじみない自然を全身で感じようとします。

もちろん悪い事ではありません。当たり前とも言えるでしょう。

しかし山や自然の中で暮らしを営む人は、自然を堪能しよう、空気が美味しい、等いちいち毎日感じているようには見えません。

そこにただシンプルに暮らし、無理なく存在しているだけに見えます。
そこで過剰な行動も、違和感もなく振舞う事ができます。

当たり前といえばそこまでですが・・



つまりシンプルに生き難い現代、つまり都市生活の中で、
人は知らずに常にどこか力を入れて、ニュートラルでなくなってしまう気がします。

したがって感じようとがんばってしまう・・

自然の一部として存在する事が難しいのです。
(人間も特別でなく自然の一部だと思っています)


もちろんこれだけで、全てを語るつもりもありません。

ホームレス境遇者が良し悪しの展開にはしませんが、
おじさん達に、社会のシステムに縛られていない一端のようなものを感じたことは確かです。



ここで話は戻ります。

さて自分の感想は、おじさん達の軽い感想より重くするのはしゃくなので、
上にある、おじさん達の感想を足し、

「よのきりた」でいきます。

「不真面目」「わからない」と言われます・・


本題です

・・・マジメな話、現在人が使用している言葉だけで、すべてが伝わっているとは思えず、
気持ちを的確に伝えようとすると、このようになるのはどうでしょう?

これがいい加減なうた、です。
マジメに、いい加減を謳うです。

500~600万年前に誕生したといわれる人類、
そして西暦においてはたかだか2000年そこそこです。
人間の歴史はこれからまだまだ何千年と続くはずです・・さて死ぬまでが区切りでしょうか?

その、そこそこでの確立している常識を疑えば、「よのきりた」という表現もありでしょう。



人間はこれで完成だと思う事はきけんです。

つまり2000年そこそこの歴史(文献)や常識が全てであるはずもなく、
もっともっと自由で、可能性がまだまだあるはずです。

自分の作品は、この部分がくっきます。
つまり常識の範疇ではわかりにくい作品となるかもしれません。

しかし自分は人間の可能性を停滞させるつもりは無く、
今ある常識だけで、物事すべてをまとめる事は人にとってどうなのか・・

今ある常識だけで、人間を表現する事は無理があるのではないか、と思っています。

もちろん何が適しているかまだまだわかりません。表現法も無限です。



1000年先、世の中はどうなのか?

幸せのネバーランドが展開していれば、日常の会話はすべて歌になっているでしょう。

そのくらいでいいのです。



哲学的になってきますが・・


人生は目を閉じて歩いているようなもので、
何も無い道なのに、先に障害物や何かが
潜んでいるという錯覚に陥っているような気がします。

感覚に冷静に対処をし、物事にとらわれ過ぎない
ニュートラルな状況にいようと思います。

今日の状況のなかを”前進し”無理なく生きること、
そしてその時代の環境で生まれる感覚を表現をする事が自然な気がします。

「ソケリッサ!!」~いい加減な謳の章~はそこから生まれました。

今の時代だからこの作品が生まれたと思います。



苦労話でも書けばいいのですが、忘れました。


最後に・・

本番中はおじさん達は間違いなく主役であり、
社会でのとても脇役の日常とは、本当に対極の状況でした。

そこで生まれ出てくるものは何か?


こちらの答えもなかなか単純なものではなく、
自分に明確に答える事は出来ません・・

もちろん何かが生まれ、変化はしている気はします。

ただ言える事は、その空間にお客さんと自分が一緒に存在をして、
それぞれ何かを感じていることです。

そして生まれ出てくるものは何か?

そこは一番の興味でした。


そして作品にはいわゆるアオキ裕キの色、そして表現をする人間それぞれの色、があり、
そしてその作品全体を、観客は自身の色とともに鑑賞します。

その両者の混ざり合った色はさまざまで、
色にはにおいや温度も備わっている場合があるかもしれません。


それが心地良い色になっていれば、うれしく思います。

作品を観ていただいた方の力強い声は、作品に関わった全員の力になります。

ありがとうございました。



シンプルでは無い話になってしまいました・・

「よのきりた」

がやはりちょうど良い感覚です。

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

2008年3月12日水曜日

「ソケリッサ!!」の楽しみ方

昨日、最後の全体練習が終わりました。

6人の懸命な表現を眺めながら、密かに躍動に包まれていました。

おじさん達の言葉を超えた表現を、とにかくたくさんの方に観て欲しいと思っています。
ホームレス問題に深く興味があるわけでも、おじさん達を何とか助けようと始めたわけでもなく、 とにかく「路上で生活している」人間の表現を、芸術として見せたい一身で始めた企画です。

難しく考える事もありません、とにかく楽しみに来て下さい。



※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

2008年2月12日火曜日

どうぶつのススメ

飼い猫の「ハナ」が行方不明になりました。



拾った時、怪我をしていた子猫で、そろそろ2年近くなる仲です。

いつもは散歩に出ても30分くらいで戻りますが、
数時間経っても彼の鈴の音は聞こえてきません。

一般に外猫のテリトリーは、家を中心に
半径500メートル位と言われ道に迷うと
その場所からさらに少しずつ半径を広げるらしく、
迷い猫は早めの捜索が必要です。

しかし夜中の捜索もむなしく、朝になっても戻りません。

周辺道路には形跡は無いので、
交通事故ではない気はしますが・・。


・・いなくなって二日経ちました。

迷い猫の張り紙を作りました。
たまに電柱などで見かけますが、
まず出てこないだろう、と思っていた記憶があります。

他人事でしたが、自分が作る事になるとは、と、
まさに失笑ものです。

同時に良く取れた写真を載せようと見ているうちに
感傷的にもなってきました・・




お互いマイペースの関係でしたが、かなり寂しさが押し寄せます。

朝からチラシも配る予定です。

情報では、普段使用している猫のトイレの砂を、猫の通りそうな場所へ撒くと、
自分の匂いを元に戻ってくる事もあるとのこと

もちろんすべて実行です。



動物はとにかく何かと匂いをかぎます。
彼も、ところ構わず嗅いでいます。
食べ物にしろ縄張りにしろ、匂いは識別の重要なポイントです、
昆虫にいたっては、視力がそこそこであろうと生活に支障はないらしい。
さらに小さい生物は脳は無いに等しいものまでいます。

つまりは「感覚」で生きている。

人間以外の生き物はまさに「感覚」で生きています。



ここで踊りの話になります、


踊りは「思考」と「感覚」の波に浮かんでいるといえます。

・・覚えた振付を踊るのは「思考」

これはまさに人間業です、

(いつぞや振付を覚えたサルを見たこともありますが、
振付けをしたのはサルではなく人間です。)



・・状況に身をゆだねるのは「感覚」

舞台に立てば観客の視線はおのずとすべてに注がれます。
そこで観客の視線をしっかりと感じ、

おのれの緊張もすべてそのまま受け止めます。

観客は表現者の身体の内外の使い方、表情の一つ一つ、目線に瞬き、
すべては表現として受け止めているはずです。

緊張はごまかそうとするのでなく、大事なのはその感覚をも受け入れる事です。
ごまかせば必ずほころび、違和感が見えてきます。

つまりそこで自分をどう見てもらうのか、何を伝えるのか、
その空間にピリッと観客と表現者のコミュニケーションが生まれるのです。


まったく振付も無くし、「思考」を排除した場合の動きは動物的であり、
逆に「感覚」を拒否していけば、機械的に見えてくるということです。


これは人の日常でも同じ事。


何も考えずに行動する人間は動物的に見え、
すべて行動を考えて計算する人間は、機械的に見えますね。


「思考」と「感覚」の波に漂うのです。


ところが、両方を兼ね備えてる人間のはずですが、お判りの通り
近代化に伴い「感覚」をないがしろにしてしまっています。

それは言い換えれば現代社会に、合わせて生きていくという、手段でしょう・・


しかし人間は生き物、「感覚」は必要です。


例えば健康に関して一番シンプルな事は、
サプリメントでも薬に頼るでもなく「感覚」を利用することです。

重要なのは、まず自分の呼吸の深さと、呼吸のスピードを認識することです。

これは大事です。

自分自身の内側に対しての意識が薄くありませんか?

とにかく体が緊張していれば、必然と呼吸は浅くなり、速くなります。
体内の酸素供給が悪いとなれば、臓器にはストレスと負担がかかるのは当然です。

自分の体格に合ったゆったりとした呼吸を心がけます。

日常の自分の表情はどうでしょう?気がつけば奥歯をかみ締めていたり・・

ここぞというとき意外は、身体は固めずリラックスする事が自然なのです。

日常を映像に収めると、理想とかけ離れた自分の表情やしぐさに、
がっかりする人が多いかも知れません。

「感覚」は使えばおのずと身体の信号を心に伝えるようになり、

状況の判断をしてくれるはずです。

ダイエットにしても、本当に空腹なのか、もしくはストレスを埋めるために食べているのか・・
体の感覚を感じる事もできなくなり、すべてを空腹の文字でくるんで食べていれば、

当然脂肪は増えるでしょう。



とにかく、人以外の自然界の生き物は、

「余計な捕食をしない」

「病気で亡くならない」

ということです。

死ぬのは餌食に、怪我や寿命。

これは実はすごい事だと思っています。



人は「思考」と「感覚」の力で文明をつくり、様々なモノを創造してきました。

どちらかが欠けても今日の状況は無かったことでしょう。

「感覚」は失っていないはずです。

芸術にしろ、思考や、建造にいたるまで、
本当に人の為になっているモノは、双方のバランスが取れた賜物と感じます。

ちなみにこのブログは、「クリエーターズブログ」といいますが、
クリエーターという職は特別ではありません。

人は皆本来、クリエーターだと思っています。
本能にインプットしてあるはずです。

ただその本能を使う瞬間に差し迫っていないだけ、
もしくは生活環境、教育環境での影響があるかもしれません。


人はたとえ仕事や習慣になってなくとも、生きる事に強く情熱を傾けた時、
頼るのは自分の身一つになった時、何かを見つけ、何かを創り出せると思っています。


太古より先代はそうやって「思考」と「感覚」を使用し、工夫を重ね発展し生きてきたはずです。



自分は、動物の「病気にならない」という生き方は、
人間にとってもありうると感じます・・



いやいや、病気になるのは寿命を延ばしたツケ、
もしくは病気は「思考」に付いて回るものなどと、言われそうですが、

今回は「思考」での探求はやめましょう・・

夢のある話で終わらせます。





飼い猫の「ハナ」がいなくなった事で、
動物についての認識が少し深まりました。
動物は皆仲間です、しっかり共存していかなくては・・



今パソコンに向かっている自分の横で、「ハナ」は寝ています。

彼は猛烈な勢いで、三日目の早朝に、飛び込んで帰ってきました。

ばらまいた便所の砂の匂いのおかげ、”嗅覚”をどこまで利用したのかは解りません。



最後に

「ハナ」は「花」からつけた名前です。





・・今回はこの辺で

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ

2008年1月16日水曜日

白っぽい話

よく、用を足しながら、考えにふけます。


トイレの話をすると不潔だの、
敬遠される話題の一つになっているかもしれませんが、
なかなか、そこにはその国の文明、
国によれば宗教的側面さえ現れるものです。

ちなみに自分の家のトイレはいわゆる
「ぼっとん便所」ですが、最近は貴重になりつつあります。

とにかく日本に関しては、町は今や無臭に近い清潔な国です。
匂いのあるものはとにかく消しているといった感じです。

以前に「ソケリッサ」の振付の中で、
日本のイメージの色をおじさんに聞いたことがあります。
そのおじさんからは、「赤か・・・・白か・・・・白の方だな。」
というような答えが返ってきました。

おそらくおじさんの中では、
国旗の「日の丸」のイメージが強いような気はしましたが、
日本は白っぽい清潔なイメージは確かにあります。

他の国に関しては、寒色、くすみ、原色、
国の現状も含んだそれぞれの色のイメージが浮かびます。


人に関しても同じ事は言えると思います。


山本周五郎氏の小説「季節のない街」を読んだ時、
シンプルな人間の色を感じました。
いわゆる2枚目は一切出てきません。弱かったり、
アル中だったり、病気であったり、他、
世間で言う歪みのある人間が登場します。

それはとてつもなく人間的でした。

小説を映画にした「どですかでん」では登場人物の住む家に、
視覚においても見事に色の表現がありました。
黒澤監督は小説を読み、人間の色を
表現しようとした形態だと思います。

登場のホームレスの父子の会話では、
父親は家についてとことん子に語ります。
「・・・住んでいる人によっては、
その家が性格を備えているようにみえる場合さえ少なくない」と

まさにその通りに感じます。
家は住むものの人間性をあらわすもので、
マイホームを建てたり、家を購入する行為は、
自己の確立ではないでしょうか。

しかしながら、色のわからない家が多く建っています。
これは外見的なことではなく、住む人間の色が
薄れているということです。

自分は社会が白くなること(清潔化)に対して、
そこだけを責めるつもりはありませんが、行き過ぎて、
後戻りの出来ない事になる恐ろしさは
誰もが感じていると思っています。



「ソケリッサ」のおじさん達は、
皆家に住みたいと言います。
他のホームレスのおじさんのなかには、
このままでいいという人もいました。
色々です。

「ソケリッサ」は、社会の片隅にいる見向きもされていない
ホームレスのおじさんが、注目される舞台の上に立つと
面白いのではないか、という部分からの発想です。

人間誰もが自身を認められようと日々生活を送っているなかで、
路上生活者が舞台に立つということは何が見えるか、という観点です。

収益は次回公演にあてるため、
出演はおじさん達それぞれの意思です。
全員揃った日は、練習の日ではまだ無く、
今の所チラシ撮影日のみでした。

出演者は技術上は素人である上、
それぞれはがっちりと絆があるわけでもなく、
生活もあり、現状はそれぞれ危うい糸の上を渡っています。

昨年1月の第一回公演は、なんとか形になりましたが、
2回目だからといって、侮れない状況です。

しかし人数が減ろうが、本番は来ます。
その時の色を観てもらおうと思っています。



ここでいったん昨年の話に戻ります。

大学の授業の一環として開催されたパフォーマンス
「カフカ」は、おかげさまで満席状態で提供できました。

自分は高卒という事もあり、大学という場所は初めてでした。


それにしても学生は皆、とにかく忙しそうでした。
「課題」や「単位」が学生達の言葉の中に頻繁に登場します。

普段自分がホームレスのおじさん達と接している事もあり、
何かと比べてしまいますが、状況はすべてが対極といっても
過言ではない気がします。


校舎の掲示板を見ると非常にエネルギー余りある状態で、
学生達による催し事やパフォーマンスの掲示はもちろん、
頻繁な著名人(芸術家)の特別講義のお知らせが目に付きました。
かなり頻繁に特別講義は開催されているようです。

情報や刺激が溢れている場所でした。
刺激の連続に麻痺をする事無く、
とにかく実になるものを感じて欲しいに尽きます。

もちろん自分も何かと麻痺することはあります。
強靭ではありません。

現代での当たり前のように満たされた
クリーンな生活での表現や生産は
、シンプルな力強い生命の営みを送るものには
かなわない部分が出て来てしまうような気がします。

人間が作り出したものにはその関わった人間が投影されており、
人の心にもっとも響くのは、泥だらけそれをでつくり出した
人間の部分だと思っています。


実は「ソケリッサ」を一番必要としているのは
自分なのかもしれません。







今回はこの辺で・・

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ