2008年5月19日月曜日

仮面ダンス2

人間の生命力は強烈だ。
身体がムズムズとしてじっとしているのがつらい。
子供の時の感覚を思い出す。

3月下旬といえどデリーの気温は30度近くありその熱気の中、
さらに暑苦しいおじさん達が街にあふれている。

露天商や洋服屋、ホテルや観光の勧誘やタクシー、物乞いまで。
一度話に乗るととにかく高値での提示から交渉が始まるのは
日本人に対する商売の定石らしい。

10ルピー、20ルピーまけるまけないの交渉は
100円にも満たない場合も多い。

しかし必至の熱気が体中からあふれている。

つまり生きる為、生活の為であり
そうそうにおれない勢いの眼力は強烈であり、
こちらも何度か相手の言い値でおれてしまったこともあった。


一度リキシャを漕がせてもらった事がある。


リキシャは人力車の自転車バージョンといった乗り物で
2人乗り程の荷台を自転車でひいて人や荷を運ぶ。



ビスケットをせがむ子供達と遊んでいると
そのリキシャの運転手はいきなり話しかけてきた。

見た感じは60代くらいだが背筋もしっかりとしている。
何を話しているのかわかりづらかったのだが、
どうやら靴を履いていない子供を、
靴を履いている人間が触るのは珍しいとか
そのようなニュアンスである・・・。

ひとつも笑顔を見せない運転手は、
ただで乗せてくれると言ったが、別に行く当てもないので断ると、
お前が漕いで俺を運べと言ってきた。


もちろん面白そうなので挑戦してみる。


簡単に見えていたが、自転車のペダルは相当に重く、
人を乗せていれば強烈な重労働である。
身体つきは細いがふくらはぎは筋肉が浮き上がっており、美しい。

クラクション鳴り響く、ほこりや排気ガス、
地球温暖化は全く気にしていないような道路状況は
健康被害も当然ありそうである。


生まれてからずーと自転車を漕いでいると言っていた。
自転車をこぎ続けて出来上がった身体…。



生活の延長に成り立つデザインには
無駄はなくシンプルである。
たいした装飾もない鉄製の自転車に
何十年も自転車を漕ぎ続けてきた老人の身体。
無駄のないいさぎよさは心に響いた。

内側から出来上がった外側は説得力があり、美しさがある。
見渡せばうさんくさく感じていたインド人達が
何となくかっこよく見えるような気がして笑えた。



ガンジス川のほとりで物思いにふける
インド人達の姿を目にする。

聖なるガンジス河の岸辺に何時間も座っているだけで、
ヨガの達人やら選任のように見えるから不思議である。

ガンジス河の川幅は200m~300mはあり、
向こう岸は人の住まない広野のようだ。
確かにかなり壮大な景色である。
人の住んでいる側は階段状になっているガートと
呼ばれる沐浴上がつらなり、人々はそこで聖なる川の水をあび、
洗濯をして、体を洗い、子供達は水遊びをしている。

横では牛が水から顔を出して群れになっている。
まさに生活の一部。

聖なる川なのだがゴミを捨てることには抵抗がないようだ。
最大限の川の利用法である。

これがまったく美しく生活臭のしない川であれば
当たり前でありこんなに観光客も集まらない気がする。

ガンジス河の岸辺のヨガの達人も、
仙人も頭の中は哲学的思考に満たされているわけではなく
結構カラッポなのかもしれない。

ただぼーっとそこにたたずんでいるというか、
存在しているというだけに思えてきた。

つまり森に生えている木や草や花のようにただそこに存在として、
瞬間瞬間を生きているにすぎないのかもしれない。

こういう表現を使うと美化しているかのごとく感じてしまうが、
インドという環境で暮らし、生活しているといるとこうなった
、という人間の生命力が形ではなくそのまま
生のままむき出しているのを自分は感じていた。


日本に帰ってきてからも身体はムズムズ何かに突き動かされている。
運の良いことに、8月一ヶ月、ブラジルでのダンス公演の仕事が入った。
ついでにブラジルの路上で踊ってみることが出来る。



それともう一つ。


ダンスではない肉体を使ったシンプルな仕事をやってみたくなり、
10年ぶりのアルバイトをした。

いわゆる肉体労働である。
時給950円。




詳しくはまた次回。




※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ