2008年10月22日水曜日

不幸日記

このブログを書くようになってかどうかは定かでは
ないのだが最近、自分の身の回りに起こる出来事
それが一般的に不幸の部類であっても、「しかたない」
とすぐにおもってしまう。

そして、文章の種として、又何かの時のネタとして、
その出来事を受け止めている自分自身に遭遇する。

以下最近の不幸の部類の出来事である。


  • ブラジルで財布を紛失。(中身はレアルやドルの外貨2万円相当と、キャッシュカード1枚)
  • 数日後日本に戻り、バンクカード等5枚入りのカードケースを紛失に又気づく。
  • (後に成田警察から連絡。カードケースは空港で落としていた。)
  • 携帯電話紛失。初落とし
  • 飼い猫のハナが近所の野良猫と喧嘩、足を咬まれ動けなくなり病院へ。
  • 初診料やら抗生物質やらで1万円近く・・。ちなみに次の日には走り回っていた。
  • 新宿で警察より職務質問。
以上の出来事があった。

これらはほぼ2週間の内にまとめて起こった
一般的不幸部門の出来事である。

もちろんどんな些細な不幸な出来事でも向上意識に水を差されれば、
落胆は瞬間にあるのだが、制約があればあるほど、
その中で少しでも自由の可能性を見つけようとしてしまう性質上なのか、
次に占めるのはやはりネタ(種)意識なのである。

つまり芸術家として日常生活で如何に制約の中から
飛び出してやろうかという事に楽しみを抱き、
針の穴のような所にも他人と違う形を成そうとしていなければ、
いざ自由な自己表現の場に来た時に、
その大きなフィールドに立つという喜びも、
又表現が出来る素直な喜びも無く、
もはや生命力は輝き失せたものになってしまう。

そんな意識が大きく自分の根底にある。

まあ良く言えばである・・。

上記の出来事が自分にとって落胆しないというのは、
たいした出来事ではないのだ!
といえるのではあるが、冷静に考えれば、財布関係はおおごとである。
そして財布を無くした直後程、もう落とすまいとことさら
注意深くなるものであるが・・
その後カードと携帯電話紛失へと続くのである。

これは明らかにそそっかしいにほどがあり
意力不足と反省をしなくてはならない。
失敗やその原因に興味を持つべきである。



そこでデータを取るべく新たに日記を書く事にしてみた。
しかし普通の日記ではつまらない、考えたのは<不幸日記>である。

不幸をメインとして、日常の不幸に感じた事柄を記す。
しかし、不幸の羅列だけではどうも寂しい人にしか思えない。
これはやってみれば判るが、不幸の内容のみ書かれた日記は、
まさに呪いの日記である。

考えたのは、不幸と思えた内容を記し、
その横に不幸の度合いを矢印で書く。
その度合いは矢印が下がれば下がるほど、強い不幸なのである。
%等、数字で書こうとも考えたが、
矢印線の微妙な角度やタッチで表すこととした。

たくさん書くのも面倒なので、箇条書き程度

*○月○日 駅の階段で転び仕事に遅刻。(感想・・・)(下がる矢印)
まあこのような感じである。

そして次に、良いと思われる出来事があれば、
その内容も記し、上がる矢印を書く。

*○月○日 仕事の成果、予想以上の反応。(上がる矢印)
このような感じである。

あくまでも大事なのは、自分にとっての
不幸ということの把握であり、心の変動である。
そしてこのような箇条書きの<不幸日記>を
手帳の隅に書くうちに気が付くことがあった。


例えば「下がる矢印」の出来事を記す。
そしてその数日先に、「上がる矢印」の出来事を記す。
すると矢印の落胆度が大きくても、少しの矢印の
上昇一つや二つほどで、帳消ししているような感覚になるのである。

当然価値観での度合いがあるが、
気持ちの落胆を埋めるているのは、
上回る気持ちの充足であり、
意外にちょっとした充足でまかなえる不幸も多い。


それから、落胆の感覚は当然はっきりと数字には表しづらい。

そこからいえば、裁判での精神的苦痛等における
慰謝料何千万円なんてものは案外単なるごまかしで、
本来人間としてスマートではないと思える。
原告の気持ちの落胆は、その落胆を充分に埋めるための
、死にものくるいの被告の行動や、
働きによる環境の改善などでバランスをとる事が本来は正当なのだろう。


不幸な出来事が起こると、知らずの内に
バランスを取ろうと充足行動を求める。
その充足行動で、不幸を何倍も上回る為、
無謀さを求める感覚が自分は好きである。

ショーン・ペン監督の「Into The Wild」で、
主人公の青年が放浪の末アラスカの荒野にたどり着く。
彼はお金も燃やし、最小限の装備でアラスカへ向かうのである。
一見するとその行動は常識では無謀である。
評も賛否分かれる彼の行動である。
しかし彼にとっては窮屈なものを排除して荒野で生きる中に、
彼の求める答えがあったはずなのである。

意味の無いことはとても意味がある。
そこには新しい何かを求める生命力に満ちあふれている。
無謀良し。

不幸を恐れて行動することは、現状維持には良いかも知れない。
しかしうまくいかなければそこは<不幸日記>の精神である。
正直な所、不幸日記をつけ始めた本来の目的から
微妙に逸れている気もしないでもないが、それもまた良し。


<不幸日記>興味のある方はいかがでしょう?



今回はこの辺で

※宮崎による代理投稿。執筆はアオキ裕キ