2009年9月18日金曜日

刺青のある景色

テリトリーの話。

最近家の近所は、道路工事が多い。

区画整理である。
実は私の家の区域も対象であり
気に入っているこの家も、いずれかは離れる事になる。

まあ仕方が無い。

それにしても、大型トラックを見てると、
ぶつからずにトラックぎりぎりの道幅であろうが
いともたやすく狭い道をすり抜ける。

・・先日、井の頭公園に、1.2メートル程のどっしりとした
木の枝が落ちていたので、その枝を持って踊ってみた。
枝の先に、木の葉や、樹木、土が触れる。

恐らく目を閉じてもその先に触れるものは誰もが
判別できるだろう・・枝の先に感覚がある。

つまり、それは物質体であろうが、身体の一部になっているようである。

乗用車から大型トラックの運転手
ジャンボジェットのパイロットや
巨大タンカーの船長まで、皆乗り物の大きさを感知し
生身の運転手の感覚が物質体であるモノの全体に入り込み
コントロールしているのである。

それはまさに運転手の一部である。
純粋に人間の能力はすばらしい。



しかしモノには”個人的”な占有意識が大きく入り込めば、
別の感覚が芽生える。

例えば購入した車、もちろん家、洋服や、装飾品
(高価であればなおさら占有意識が強く沸く傾向を感じる)
所有物やモノに、持ち主の身体意識が及び、
生物的保身感覚が強まっていく。

つまり身体のテリトリー(領域)となり、
気持ちの上でも身体の一部となる。

例えばこのような見解はどうだろう・・

他人の車と当たる、接触事故があったとする。
停車中の車にこつんと当たって、怪我も何も無いとする。
当てられた側は、1センチの傷が付いて、血相変えている。
つまり、当てられた側は、高価なものという感覚だけでなく、
受動的立場であり、身体テリトリーが傷付いて、
自分自身が傷ついてしまったように思えるようにも見える。

当たった側は、言い換えれば他人のテリトリーに侵略した
能動的立場であり、同じ傷が付いても、身体テリトリーが
傷ついた感覚はさほど無く、傷を付けた(ある種のテリトリー侵略行為)
にたいして、申し訳なく思う気持ちが前に出るのではなかろうか・・

次に・・

ボストンバッグを肩に駅を歩くとする、すると前方から急ぎ足で来た人が、
バッグに接触しそのまま急いで通り過ぎていく。

バッグに当たり、バッグがゆれたのは確かだが、
こちらは怪我も何も無い。ここでも受動的立場の感覚である側は、
バッグを持ち歩くこちら側で、身体テリトリーが侵されたことになる。

そして占有意識が強ければ、怪我が無くともストレスを感じるのである。

急いで通り過ぎた側は、用事で急いでいたのかもしれない、
故意に当たった意識も無い、能動的感覚の立場であれば
意識はそこにはたいして残っていかないように思える。

不思議なものである。

テリトリーはいわゆる縄張りである。
だれでも自分の空間、心の領域に安易に他人が入り込めば躊躇する。
動物として縄張りを持ち安心したいのは当然である。
しかし常に縄張りを拡張しようとすることに目を向ける傾向は、
人特有の自我の働きであるが、他人と自分を比べる事にも度がある。

物質に頼らず、態度、言葉で威嚇する方法がある。
周りが危険とみなせば侵入者は減り、テリトリーは守られる。
若しくは身を潜め、なるたけ目立たなくするか。

いずれにせよそれも人間的で、否定はしないが、
そこにこだわっているとストレスは溜まりヒステリーになるだろう。


裸の状態、または総ての人が同じ服に身をまとい
何らかの理由で物質的に誇示できない場合

人間の本質がそこで初めて浮き彫りになるのである。



実は先日、とある少年刑務所を参観した。



・・つづきは後半へ

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