2009年10月27日火曜日

食するひと

「アオキさんは、ベジタリアンですよね?」と
人に言われる事がある。


傍から見たイメージだそうだ。

普段は確かにベジタリアン生活に限りなく近い
家で野菜を育て、野菜中心の食事である。

野菜を育て始めたのは、
食費を押さえようと思ったのがきっかけであり、
肉の値段も高く、腹が重くなり、そうなると眠くなる・・
カラダが軽い方が踊りやすい。
と、だんだんと食べることが減った。


もちろん機会があれば食べる。



「いのちの食べ方」という映画がある。
監督はオーストリア出身のニコラウス・ゲイハルター氏

この映画は、牛、豚、にわとりなどの家畜が肉になる過程
又、野菜や果物の生産過程などがナレーションもなく淡々と
映し出される内容である。

ちなみにこちらの映画のホームページでは

日本は食料自給率が低いわりには
世界で最も残飯を出している国でもあります。
金額に換算すると、11兆1000億円もの量になります。

・・・

等、食に関する問題点が掲載されている



映画は自分たちが口にしている食物の生産過程が
よく見える内容であり
家畜の処理過程は率直に言えば「残酷」に感じた。

しかし「残酷だと思うのなら肉食を止めたら良い」という思考では無い。



アラスカやカナダ、グリーンランドの極北で生活する人々にとっては
肉は生きるために必需であり、アザラシや白熊を何日もかけて狩る。
その地での圧倒的な生活を目の前にしたときに、
おそらく食の定義が明確になるように思える


「残酷」に感じるのは日本人の目線の自分である。

人間は動物であり、生まれたときに母乳を体内に取り入れる。
そこで「自分は何を食べて生きるのか」という情報を
母による体内成分より教えてもらい準備をするように思える。

民族や人種によって食文化は違いがあり
それぞれの気候や土地、環境で適した食生活になる。

人間の食はそれぞれ違って当然である

我々は生きるために食べ物を食べるのが、自然だが
なんでも手に入る豊かな暮らしでは、嗜好に走りすぎるのも当然であり
それぞれカラダにとって本当に必要なものが何か・・
感覚はぼやけてしまっている。
そこが、残飯大国と言う良からぬナンバーワンに
なってしまった姿なのだろう。


ベジタリアンだろうが、なかろうかに焦点を当てるのではなく
一番望ましいのは食べる分を自分の手で(育成し、刈り)狩り
食すことなのかも知れない


しかし家畜を肉にする役割の人達がいて、
そのほかの人達は製品になったものを購入する
その世界大半で当たり前となっている分業システムは
今更どうしようもない訳である。

スーパーが無くなり「来年より自分の食べるものは自分でどうぞ!」
となれば、皆戸惑いは必至・・
外食産業も無くなれば、肉を求めてより自然の多い地方へ
分散するのか、ライフスタイルを変えずに
お金で何とかしようとするのか・・



しかし既に挙げた極北の人々は現にそれに近い生活であり
食べ物を無駄にせず、祈りをささげ食すのである。

アラスカで暮らし、アラスカの写真を撮り続けた、
星野道夫氏の著「旅をする木」では
狩猟民族に生命体の本質を見出した記述がある。

一文を


動物達に対する償いと儀式を通し、その霊をなぐさめ、
いつか又戻ってきて、ふたたび犠牲になってくれることを祈るのだ。
つまりこの世の掟である無言の悲しみに、

もし私たちが耳をすますことができなければ、
たとえ一生野山をあるきまわろうとも、机の上で考え続けても、
人間と自然との関わりを本当に理解することは

できないのではないだろうか。

人はその土地に生きる他者の生命を奪い、

その血を自分の中にとり入れることで、
より深く大地と連なることができる。

そしてその行為を止めたとき、人の心は
その自然から本質的には離れてゆくのかも知れない。

・・・・・・・・・




食事の前に手を合わせ「いただきます」と頭を下げる
日本人の作法がある。
神道ではすべてのものに神が宿るとされている。
古人は物をとても大切に扱ってきた・・

残飯大国ナンバーワンから脱却できる感覚は
本当は日本人の心の奥に潜んでいるのである。



いのちの食べ方の映画に戻るのだが
中に果物や野菜の生産シーンも出てきた。

室内の照明で野菜を育て、
虫の付かない美しい野菜が育成されて出荷され
空からセスナ機で植物(野菜か果物)に農薬をかけていた。
かなり大量だった。

当然美しい野菜は需要があるのだろう。











今回はこの辺で



「いのちの食べ方」映画HP
http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/

2009年10月26日月曜日

路上ダンス「母の時間」

天候が不安でしたが、無事開催することができました。
条件の悪い中、たくさんの方に来て頂けたことにとても感謝しています。

ありがとうございました。

パンフレットを100部以上用意していたのですが、
こちらのミスで配ることができずに、肩を落としています。
文章を見て頂ければ、特に初めての方には、もう少し
ソケリッサ!へ近づきやすかった事と思うのですが・・



私達の表現へ足を運んでくれること、又拍手いただけることを
メンバー共々、心より感謝いたします。

又次回へ向けて精進いたします。

ありがとうございました。

2009年10月7日水曜日

踊ります。 路上ダンス 母の時間

























2009年10月25日(日曜)17時より、井の頭公園にて踊ります。


ソケリッサ!は路上ダンスと称して
ホームレスのおじさん達の表現を
気楽にたくさんの方に見てもらえるように
今年の7月から井の頭公園で踊っていました。

その締めくくりとして、今回は演出を加え
「路上ダンス 母の時間」
と題し、ライトアップによる空間の中、
作品としてお見せしたいと思います。


是非、秋の夜長に吉祥寺の森へ立ち寄っていただき
私達の身体より出てくる表現を楽しんでください。

無料です。心よりお待ちしています。

2009年10月6日火曜日

刺青のある景色3

前回よりの続き・・・



つづいて作業場。
そこでは市場に出回る日用品生産の一部を加担している。
空間には他にも作業用個室や、大型の洗濯機数台
工業用具が壁に並び、自営作業、職業訓練も兼ねた
工場のような場所である。

扉を開けて中に入ると、
ずらりと30人程(に見えた)の収容者が作業台に座り
黙々と製品を組み立ている姿が目に飛び込んできた。

5人掛けの作業用長机に隣と均等に間隔を空け座り
皆同じ姿勢で手元を見つめ、教官の監視の中
もちろん私語も無く、余所見をすることも無い。
筆記用具内部の部品を組み立てる作業に見えた。

蒸し暑い中で作業を行なっている。

扇風機がゆるやかに回り、湿度の高い
(夏場もクーラーがないように思えた)
けして快適とはいえない空間で
黙々と作業を行なう収容者の前を進んだ。

その空間は独特であり、緊迫した舞台上に
いるときの感覚に近いものがある。

当然長袖では、蒸し暑く大変であるため、
上半身は白いTシャツか白いランニングシャツで作業を行い、
頭髪は、皆五分刈りの坊主頭だ。

収容者にはかなりの割合で、肩から腕にかけて刺青(入れ墨)があり。
犯罪と刺青の関係・・等、部屋を出ながらぼんやり考えていた。




施設の説明、少年犯罪について話を受け、
質疑応答があり参観は終わりになる。
どのような質問にも丁寧に答えてもらえた。

そこではお金は優越の対象にならず、
洋服も髪型も規律に即した形で平等に統一されている。
当然であるが、表面的装飾をふくむ、
物質面での個人主張はまず出来ない。

毎日が規律に従った生活であり
起きる時間から寝る時間まで決められていて
余暇時間は夕食後の数時間、そこでの行動はおのおので
テレビを見る者、本を読む者、手紙を書く者などそれぞれに別れるが
基本的に管理下におかれているのは変わらない・・

又、他人との私的コミュニケーションは制限があるそうだ。
同室の者同士、お互いの罪は知らないということである・・

休日、祭日は、1日約8時間の作業などの矯正処遇は免除となり
監視の中、余暇時間が設けられている。



収容者はその制限された空間で、
どのような感覚になっていくのだろうか。


あくまでも主観だが、常に側に素性を明かさない他人がいて
周りと足並みを統一し、監視をされて生活をする状況はつらい
自分は逃げ出したくなる。


・・やはり罰を受ける場所なのである。


彼らは26才未満の若者で、社会的ルールに反してそこに来ている。
彼らの傾向は、疎外感、愛情飢餓感を持ち、せつな的に生きていて
共感性、自制力が希薄であるという。

その状況では、近くの他人と自分の関係で精一杯になり、
そこで優越を付けること、内的部分での主張に終始してしまうのが
常になるのではないだろうか・・

人はそれぞれお互いの関係を平等だと思い
心を開いたときに初めて回りに目が向く
収容者が、お互いを理解し、落ち着いて自分自身の居場所を確保し
自己を見つめ、広い世界を見つめ自分がどうありたいかと考えることは
容易ではないだろう・・

刑務所で自分の罪を心底反省し、精進し勉強に励み、
社会復帰をしようと思えるようになることは理想であるという
やはりそこで精進しようと思えるのは、教官の愛情
人間性による救出力が大きい事は明確だ。

刑務所は罰と更正が存在する場所なのである。
個人を抑圧されて、個人を開花しなければならない。

ある意味そこに、人間の持つ複雑な矛盾性が見える。


芸術に導いたとき、何が見えてくるのか・・と又想像する。


とても考えさせられた1日であった・・

家に帰り、慣れないスーツを脱いで、ふと鏡を見た。
そこには坊主頭で、左腕に刺青のある自分が写っている。

”たまたま”彼らは刑務所の中で罰を受け、私は”たまたま”ここにいる。
生まれたときは皆同じように素朴な存在であり、
”たまたま”生まれそだった環境での違いなのである・・


鏡の前で少し踊った。







今回はこの辺で・・