2009年11月27日金曜日

憂鬱なカラダ 

先日、首に痛みが出て、病院で検査をすることにした
どうやら疲労で筋肉が張っているとの事

普段は怪我も無く、今の所至って健康だが
身体は確実に劣化する・・
年齢に伴い身体はますますいたわらないといけないなあ
と思いながらレントゲン写真にうつる自分の骸骨を眺める

身体は神秘に包まれている。


・・私達の身体は目に見える「肉体部分」と、
見えない思考や意思、感情などの「精神部分」で構成されている。

そこで人間の行動には、
肉体への知覚(感覚)の刺激が精神部分に働きかけるか
逆に精神部分から肉体に働きかけ行動を起こすといった
精神と肉体間のやりとりがせっせと日々行われるのである。

つまりは、見える部分と見えない部分が噛み合って初めて、
身体にとって自然な状態ということになる。

踊りなら、心地よければ心地よく踊り、心地悪ければ心地悪く踊るのである


日常であっても、つらいのに楽しいふりをする事はきつい
単純に我が内に正直に生きることである。
しかしながら、明らかに精神と肉体が噛み合っていない振る舞いは
いたるところ見受けられる

表向きがよければ中身は問題にしない社会の傾向はまずい・・

とうぜん不自然は身体に無理があり、壊す原因でもある。


以前、CM制作会社に頼まれ、企業へのプレゼン映像用に
振付のアイデアを求められた時の話。

新商品の強い守秘義務のため、食品ということ意外、商品の名前も
何も詳細を教えてもらえず振付を頼まれたことがある。

それは大変であった。売り出す商品があって動きのイメージができる。
商品を知らずに形をつくることは不自然で、なにより芸術性にかける。

(もちろん、たまたま先方にそうなる事情があった事で
やるからにはもちろん尽力に従ったことは付け加える。)


・・・・・

人前で肉体をさらし踊りを踊ることは、
精神のさらしである。

魂の叫びである。

目に見える部分だけなんて、おさまる事は自身にとってありえない。
そしてその先、目指すはその場に身をゆだね、
何も閉ざすことなく感覚を開く作業である。

踊りとは肉体の外に散らばっているものを感覚が集め
肉体の動きに変換していくように思う。
絵も音楽も言葉も会話も表現はすべてそうだと思う。

6畳の部屋で裸電球の下、表現をする場合と
広大な原野で表現をする場合は明らかに同じものは出ない。
それはとても自然であり、すばらしい事なのだ。

感覚アンテナが劣化しないように注意が必要であるが・・
それは芸術家のみならず、誰しも当てはまること




とにかく精神部分と肉体部分が共存している身体にとって
バランスは大切であり、目に見えない精神部分を認識し
身体にとってシンプルで自然な状態でいることは大切である。

とはいっても物質的価値が優先している現実、
精神と肉体のバランス舵取りが、容易ではないのもわかる・・
もちろん自分自身特別な人間でもないし、
精神と肉体そしてそれらの理想との葛藤もある。


植物のように、今を淡々と生きる姿、
動物のようにただ懸命に生きる姿はとても美しい・・


素晴らしい。


一息・・


話は最初へ戻り、病院の待合室でのこと。

隣に座っている体格のよいおばさん(好意を持っての名称)
が話しかけてきた。
「私はひざが悪くて、先生には痩せろと言われてるけど・・」
「そうなんですか。」
「運動は嫌いだから、サプリメントでがんばっているのよ。」
「やせます・・?」
「良いのは一通り買って飲んでるわ。
年金ほとんどつぎ込んで毎月7万よ。」
「・・・。」
「高いのよ。でも何が効いてるのかわからないから、
どれも止められなくて、大変。」
「・・。」
「この後ステーキ食べるのよ、医者に来る前は太らないように
我慢してるけど、やっぱりだめねぇ、ははは。」

これは驚いた。

とにかく突っ込みどころが多く
気の利いた言葉はかけられなかった・・

しかしこういうおばさんが、どうも嫌いになれない自分である。







今回はこの辺で・・