2010年2月10日水曜日

原始力

「サルが人間に進化して、一番最初に話した
言葉は何でしょう・・・?
うー あー・・・きっとそんな感じでしょうね・・・・」 

これはソケリッサ!作品中の台詞である。


さて人間の最初はどんなものだったか想像する・・・

通説ではアフリカで生まれ、その後ユーラシアへと渡ったという
地図も無い時代に全く情報も無い場所へ歩き出す・・

それにしても他の動物のように牙も無く、角も無く、身を守る
硬い甲羅も無く、速い足も、木登りも容易ではない人間は
いったいどのような生活をしていたのだろうか・・

とにかく何も情報の無い世界が広がっている

始めてみる猛獣がいきなり現れることもあっただろうし
自然災害、カミナリ、地震なぞ腰を抜かしたかもしれない
その状況の暮らしは、想像以上に恐怖に包まれていたと思ってしまう

人間も増えてくれば当然安心と共に、不安も増える
どこまで信頼関係は存在したのだろうか

又、死を受け入れることができたのだろうか・・

とにかく人間は我が身を守るために武器を作り(それも必死で)、
コミュニケーションにおいては危機に直面した獣のように雄叫びをあげ
強烈なエネルギーで身振り手振り行い、その景色はすさまじい
狂気なモノであったのではないだろうか・・

仮に秩序もなく、又冬場に狩が出来なければ
死を恐れ生きるために平気で食べ物を奪ったり
傷つけあう事もあるだろう・・

穴の開けられた頭蓋骨が何体も見つかり
ネアンデルタール人の脳が取り出され食べられていたのでは
ないかという説がある。もちろん呪術的意味合いとも取れるが
その印象は理性でしっかり抑制されている
現代の人間と同じとは考えにくい



ロバート・アンドレイの「狩をするサル」という本を古本屋で見つけた。
(1976年に発行現在は廃刊、ちなみにこの時代、なんと
きっぱり地球の温暖化はありえないと作者が断言している手記がある
・・今ほど注目されてなかったのがよくわかる)

さてこの本の中で、衝撃的な文章がある。

アメリカの人類学者、コリン・ターンブルがウガンダ北東の
山岳地帯に住むイーク族の研究を行った手記があるのだが
その内容は飢餓状態において人間に宿る狂気が記録されている

イーク族は網を使い、仲間と協力し獲物を追い込んで狩をする
狩猟民であった。しかし、独立したウガンダ政府から狩猟場を
動物保護地区へと指定され 狩を禁じられてしまう。

政府は彼らに作物の種を給付し、穀物の栽培方法を

指導したりしたが 、やすく農作業に飛びつくことも出来ず
わずかな努力も旱魃(かんばつ)
に見舞われ彼らは人と人、夫と妻、親と子で争いあうようになる

そこでのイーク族の語りがある
「・・子供は年老いた両親同様、役に立たぬ厄介者だ。
自分で自分の面倒が見れない者はすべて他人に負担をかける
有害な存在である・・」

彼らは家族の絆などばかげているとみなす。

イーク族の母親が水場のそばに赤ん坊を置いたとき
ヒョウがその子をさらってしまった。
そこで母親は子を養うこともなくなり厄介払いが出来たと喜ぶ
さらにこの付近に満腹になって寝ているヒョウをしとめれば
獲物にありつける絶好の機会だと・・

そこで男達は眠っているヒョウを見つけ、殺して調理して食べた。
半分消化された子も一緒に。

又ある母親の赤ん坊が這いながら、焚き火に近づいた。
周りの男達は息を呑んで見守っていた。赤ん坊が焼けどをおい
悲鳴をあげると男達はどっと笑った。
母親は男達を楽しませたことに満足し

その子を手もとにひきよせた 。
飢餓は恐ろしい。

その後村から数マイル離れた場所に政府の救援施設が設けられ
食料の援助が受けられるようになる

村から食料を取りに行った者は、帰り道でその食料をくりかえし
吐くまで食べ、仲間に分ける量を少しでも減らそうとした


・・・・・

もちろんこれが特別な状況における人間性の総てと結論付けることは
避けるべきではあるが、ターンブルは、自己中心的妄想だけが
真の人間特有の性質ではないだろうかと考える

この内容に付け加えたいのは、イーク族は、単に飢餓に陥り
温厚さを失っただけではなく狩猟生活を奪われた伝統の消滅
そしてプライドを失ったショックの影響は計り知れない
それらは彼らの変貌の要因と関係無いとはいえないだろう

とにかく人間にはいとも簡単に落ちていく弱さがある
そして、狂気を持ち合わせている



我々の今があるのは武器を手に入れたからである。

先人が生きるために「思考」「言葉」「道具」を創り出した
それらは同時に硬い甲羅になり、逃げ足になり
我々の身を守るものとしても活用できる優れた性質を持つ。

人間が生き抜くために創り出した「思考」「言葉」「道具」
の持つ力は当然驚異的である

そこにはもはや手放せない身体の機能としてゆるぎない存在感を持つ

ちなみに個人携帯やパソコンを他人に覗かれたくないのは
おそらく思考を覗かれることであり、自分自身と直結しているからである。
道具は武器、身を守る身体の一部化としておそらくまだまだ進化するだろう

又、このブログも自分の思考を正当化して、
言葉で身を守っていると言えばそうなるのである・・

・・・・


たまたまであるが、踊りを踊るとき、言葉を使わず
道具も持たず、身体感覚で動く。 



踊りとは、人が生き抜くために創り出した武器を総て放棄したとき
そこに何が生まれるのか・・ということなのだろうか?

いや。説明するとどうもかっこうよく
聞こえるようにするのがいやだ



あれこれ言わず、単に人前でわが身をさらけ、痴態をみせる、弱弱しいもの
と言いたい。








今回はこの辺で

2 件のコメント:

  1. お疲れ様です。
    この日記を読む前にレッスンに出られてよかったと思います。
    こんなに深い洞察と情報を頭に入れた後では、自分で考えて導き出すと言う行為が嘘っぽくなっていたと思うので。
    さすがにあの短い時間では、「自分をさらけ出す」というところまでは至りませんでしたが(゜∀゜;)
    次回の課題ですね。また時間が出来たらお邪魔しま~す♪

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  2. 直子さんこんにちは

    考えずに、軽い気持ちでまずは動く
    という感じで良いです。

    空っぽでも直子さんの身体は動きますよ!

    又来てください。

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